学歴がないと努力が足りないのか。

以下の2つのポスト。
同じことを言っているのに反応が全然違う。
前者のポストには肯定的で、後者のポストには否定的な反応が多いように思う。


まあ、違うことを言っていると捉える事もできるが、「低学歴は努力ができないことの証左である」と言う点で一致していると捉えられると思う。

前者も後者も、それに対する反応も言いたいことはよくわかる。しかし、後者が不憫なので少し援護射撃をしてみたいと思う。言ってることが同じなのに片方だけ否定されるのはかわいそうだろう。

学歴で判断することの是非について

私は、学歴で人を判断する事については「正しい」と考えている。少なくとも、高学歴で有ればまともな人間である可能性はぐっと高くなる。その事は否定のしようがない。
詳細は割愛するが、学歴では努力以外に育ちがまともなのか等も評価できると考えている。育ちが悪くてもそれを覆すほどの圧倒的才能や努力をします場合もある。その結果としてまともな人間である可能性は非常に高く、指標としては有用であると言わざるを得ない。

学歴は努力の結果であるのか

これについては、否定しておこう。
やはり、かなり生まれに左右されると言わざるを得ない。
もちろん、努力も重要なパラメータのひとつではあるが、あくまでも複数あるうちのひとつだと言う事だ。
生まれた地域や親の経済力、性別、能力、時の運等の要素が絡み合った結果として手に入るものである。
したがって、当人がまともな人間かは判別できるがそれぞれ初期条件が違うから努力は測れない。
そういう意味では両者とも間違えていると言える。

なぜ反応が違うのか

両者の違いは、ボーダーラインだと思う。
前者のボーダーはそこそこの大学。後者のボーダーは東大博士。
そこそこの大学の人たちからすると、前者はボーダーをこえているから自分の努力が認められる形になるけど、後者だとこえられる人はなかなかいないし、そこそこの大学でも自分が努力してない事になるから不快になるわけだ。
誰でも、自分が頑張ったことを否定されるのは嫌ですからね。
私は低学歴だが地方の比較的貧乏な家庭に生まれたので、むしろ前者を不快に後者に共感を覚える。
そういう面もあり、後者を援護してみたくなった。

なぜ後者のような考えになってしまうのか

改めて弁解しておくと、私は学歴=努力の結果だとは考えていません。従って、どちらのポストにも同意はしません。
この辺りの考えは、田舎の貧乏育ちながらも努力でのしあがろうみたいな野心があまりなくて、才能に胡座を描いて楽して生きていく人生を歩んできたのも大きいと思う。中学生くらいの時は、なんでみんなこんな簡単なことがわからんのだろう?と本気で考えていたが、自分は頭がいい事にどっかで気づいた。そしたら、たしかに貧乏田舎育ちだけど頭は良く生まれてきたのだから、これはアドバンテージであり恵まれているんだと思えたので正気を保てたのだと思う。

一方で、前者の人が自分が恵まれていると自覚するのは非常に難しい。
学費はおろか、受験費用の数万円を工面することにすら頭を悩ませるという状況が想像できますか?
そのような中で、奨学金があってもそこそこ親がなんとかしてくれる、塾にもかよわしてもらっている人たちから「学歴は努力の証左である」と言われてみたら、どう感じると思いますか?
そんな中才能があるとはいえ、歯を食いしばって自力でなんとかして高い学歴を手に入れたなら
「お前らの努力足りないんじゃない?」って言い返してやりたい気持ちは自然だと思います。

むしろ、恵まれてる人間の方がよりナチュラルに「学歴は努力の証左である」と言ってきますよ。なんの悪意も無しに。

前者も後者も言ってることは同じだし、お前らもナチュラルに人を見下しているのだから、前者だけ肯定して後者を批判するのはおかしかろう。後者も認めて肯定せい。もしくはどっちも否定せぇ。
と言うのがここでは言いたいことです。

そしてお前は自分が恵まれている事を自覚しろ。
俺も才能には恵まれているし、世界でみると飯が食えて布団で眠れて服がある時点で恵まれた環境にうまれたのだ。
こんなカスみたいなテキストを読む端末や時間、余裕のあるやつが恵まれてないわけがない。
それとは別に、結果が出てないけど努力が足りないわけじゃない事には注意してください。

以上。

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