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『黒猫が教えてくれた魔法の夜』

平凡なリズム

レコードの針が擦れる音が、古着屋の店内に低く響いていた。ミユキはカウンターに頬杖をつき、窓越しに見える街並みをぼんやり眺めている。

「もし、世界中の人が踊り出したらどうなるんだろう?」

道行く人達が、レコードのリズムに合わせて急に踊り出す——通りの角で足を踏み鳴らすサラリーマン、手を振り回しながらくるくる回る買い物帰りの主婦たち。その中心で自分がリードを取って華麗に踊る姿。

「⋯⋯ふふ、バカみたい」

口元に浮かんだ笑みを慌てて消し、横目で時計を見る。閉店時間まであと少し。20歳になったばかりの彼女は、レトロなファッションと音楽に夢中だった。でも同じ景色の中で過ごす日々は、平坦で退屈に感じられた。

「今日はこれで閉店にしようか⋯⋯」 
 
店長がぽつりと呟く。彼女はそれを聞き流し、小さなスピーカーから流れる音楽のリズムに合わせて軽く身体を揺らした。レコード棚に手を伸ばし、7インチの円盤を選び、ターンテーブルに置く。

軽快なロックンロールが流れると、フロアで踊り始める。しかし鏡に映ったぎこちない自分の姿に、思わず苦笑いする。

「まあ、私には向いてないか⋯⋯」  

音楽は彼女にとって唯一の楽しみだったが、それ以上のものにはならなかった。この退屈な世界は変わらないのだと、諦めていた。

「いいなあ、私も自由に踊れたらなぁ⋯⋯」

彼女は小さくため息をついた。  

黒猫の誘い 

その日、ミユキは仕事帰りにふと足を止めた。見慣れない路地裏を見つけたのだ。

「こんなところに、道があったなんて⋯⋯」

古い石畳が月明かりを受け銀色に輝き、路地全体を淡い光で包んでいる。

「たまには違う道もいいかも。少し遠回りしてみようかな」

そう呟き、路地裏に足を踏み入れた。石畳を踏みしめるたびに、異世界に迷い込んだような風景が広がっていく。見とれて歩いているうちに、気づけば帰り道が分からなくなっていた。

その時、背後から視線を感じた。振り向くと、一匹の黒猫がじっとこちらを見つめている。

「あなたも迷子なの?」  

そう声をかけると、猫はくるりと背を向け、ゆっくりと歩き始めた。彼女は無意識にその後を追った。

歩きながら、頭の中に空想が広がる。黒猫の後を追って行けば、きっと誰も知らない秘密の世界にたどり着くに違いない——きらびやかなネオンに輝く街、人々が音楽に合わせて踊る不思議なパーティー⋯⋯。  

現実の足音と、空想の中で流れるビートが重なった時、不意に色褪せた扉が彼女の目に留まった。上には「The Swinging Cat」と書かれた看板が揺れている。扉の向こうからはロックンロールが漏れ聞こえてきた。

黒猫が扉を軽く爪で叩くと、音楽が一段と大きくなり扉がひとりでに開いた。胸の高鳴りを感じながら、ミユキはその扉の中へと足を踏み入れた。

踊る夜の始まり

扉の向こうには、まるで別世界が広がっていた。音楽と光の波が一気に押し寄せ、ミユキは思わず息を呑む。

ピンクや水色のライトが壁や天井を彩り、ミラーボールが静かに回転しながら、無数のきらめく光の粒をフロア全体に降り注いでいた。

50年代風のファッションに身を包んだ人々が、リズムに合わせて軽やかに踊っている。みんな笑顔に満ちていて、楽しさが空間全体に広がっていた。

「まるで映画の中みたい⋯⋯」

胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。部屋の隅には、木製のカウンターが滑らかな曲線を描き、その前にはクローム仕上げの縁が光る丸いスツールが整然と並んでいる。

カウンターの端にはレトロなジュークボックスが鎮座し、カラフルなネオンの輝きがほんのりと漏れ出していた。

足元には、モノクロの光沢タイルがチェッカーボードのように敷き詰められ、その上を靴音がリズムを刻む。壁際には、赤いビニールシートのベンチがずらりと並び、クロームのフレームが控えめに輝きを添えている。

黒猫はフロアを軽やかに横切り、まるで彼女を誘うようにしっぽをゆらりと揺らしながら振り返る。「こっちにおいで」と言っているみたいに。

ミユキはその後を追い、ダンスフロアの中央へ足を運んだ。周囲の人々の笑顔、スカートが弧を描くたびに生まれる風の気配、軽快に刻まれるステップの音、それらが一つになりフロア全体を一つの生命体のように感じさせた。

彼女は呆然と立ち尽くしながらも、その高揚感に知らず知らずのうちに手が震えていた。

「さあ、一緒に踊ろうよ!」 
 
水玉模様のスカートを履いた若い女性が、微笑みながら手を差し出した。ミユキは一瞬戸惑ったが、ロックンロールのリズムに引かれるまま、その手を取った。  

リズムを探して 

踊り始めると、ぎこちない動きに恥ずかしさが込み上げる。足元がもつれ、周囲の笑い声が自分を笑っているように感じ、胸が縮むようだった。

「私、上手く踊れないのに⋯⋯」

そう思った瞬間、手足の動きが止まり、動けなくなった。恥ずかしさで顔が熱くなり、下を向いてしまう。

「大丈夫、楽しめばいいんだよ」  

さっき、手を取ってくれた女性が励ますように微笑んだ。ミユキが苦笑すると、すぐ近くで黒猫がくるりと回転して見せた。その姿が妙に 可笑おかしくて、思わず笑いがこぼれる。

「何それ⋯⋯ふふっ」

肩に乗っていた緊張が少しだけ軽くなった気がした。

「もし、これが全部私の空想だとしたら…?」

空想の中なら、誰に笑われてもいい。思い切って身体を動かすと、次第にリズムを掴み始めた。ぎこちない動きは相変わらずだが、リズムが体の中に染み込んでくる感覚があった。

ステップを少し変えてみると、滑らかに動けたような気がする。それが嬉しくて、もう一歩踏み出す。今度は、足の動きに手を加えてみる。

「私、踊れてる⋯⋯?」

自信のなさが完全に消えたわけではなかった。それでも、さっきまでの恥じらいと不安はどこかへ消え、身体が音楽と調和していく心地よさに浸り始めていた。
黒猫がもう一度軽やかに回転すると、周囲の人々も彼女を見て微笑みながらステップを合わせてくる。ミユキは少しだけ自信が湧いてきた。

魔法の瞬間

ダンスフロアの中央で、ミユキはすっかり音楽に身を任せていた。頭の中で何度も描いていた映像と、目の前の光景が重なり合い一つになっていく。

カラフルなライトが、彼女のステップを追いかけるように動いていた。赤、青、緑と次々に色を変えながら、鮮やかな模様が床一面を彩っていく。足元には光のラインが浮かび上がり、それが波紋となってフロア全体に広がる。

光の波が足元で揺れるたび、ミユキは自分がそのリズムの一部になっていく感覚を覚えた。

床から伝わる心地よい振動、身体全体を包み込む光の温かさ、そして周囲で踊る人々との調和。すべてが一つに溶け合い、彼女が心の中で何度も思い描いていた「理想の世界」をそのまま形にしたようだった。

気づけばフロア全体がミユキを中心に、一つのリズムで繋がっていた。音楽とダンスが完全に調和し、その一体感に酔いしれながら彼女はただ自由に身体を動かし続けた。

それは、まるで星空の下で踊っているかのような幻想を生み出し、フロア全体が宇宙に浮かぶ一つの惑星であるかのように感じられた。

「今、私はここにいる——このリズムの中に」

彼女は目を閉じ、身体を動かし続けた。自分自身の鼓動が世界のリズムと重なり、溶け合い、一つの大きな調和を生み出している。

「これは⋯⋯私の鼓動なんだ⋯⋯!」  

胸の奥から熱いものが込み上げてきた。それは、自分自身がこの世界の中心にいることへの実感だった。

「私が⋯⋯この世界を踊らせているの?」

彼女が腕を広げて回転すると、それに合わせてライトが弧を描き床の光が渦を巻いて広がった。胸の鼓動が音楽と重なり、全身に響き渡る。

心のどこかで、これが現実ではないことに気づいていた。けれど、この魔法のような時間は、何よりもリアルだった。フロアの隅では黒猫が静かにその様子を見つめ、満足そうにくるりと回ってみせた。

日常への帰還

ミユキはふと我に返り、カウンターで頬杖をついている自分に気づいた。窓越しに見える街並みは、忙しなく行き交う人々と車の音で溢れている。

「白昼夢⋯⋯だったの?」

彼女は軽く首を振った。頭の中で、まだあの鮮やかな映像が消えずに残っている。光に満ちたフロア、ミラーボールのきらめき、リズムに合わせて踊る人々。

そして、世界そのものが彼女の鼓動に合わせて揺れていた感覚——それは、ほんの少し前まで確かに自分の中にあった。

指先でカウンターを軽く叩くと、足が自然と動き始める。軽快なビートが頭の中に流れ出し、それが心臓の鼓動と重なっていく。

「本当に、夢だったのかな⋯⋯?」

窓の外に目を向けると、一瞬だけ通りを歩く人々がリズムに合わせてステップを踏んでいるように見えた。瞬きすると、風景はいつもの姿に戻っていた。

ミユキは立ち上がり、小さなスピーカーから流れるロックンロールのリズムに合わせて身体を軽く揺らした。レコード棚からお気に入りの1枚を取り出し、ターンテーブルにセットする。針を落とすと、店内に軽快なビートが響き渡った。

「そうだ。私には、私のリズムがあるんだ」

窓の外に目を向けると、黒猫がじっとこちらを見つめている。目が合った瞬間、猫はゆっくりと路地の奥へ消えていった。その後ろ姿に、ミユキは微笑んだ。

「また、あの場所で会えるかな?」

カウンターに戻りながら、指先でリズムを刻む。頭の中には、あの夜の光景と音楽がまだ鮮明に残っていた。それは、魔法にかかった様な不思議な気分だった。

「世界中の人が踊り出したらどうなるんだろう?」

再びそんな空想が浮かんだ。胸が高鳴り、ミユキの中でリズムが跳ねる。彼女は窓の外を見つめながら、小さく足を踏み鳴らし笑みを浮かべた。


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