付録話 うるし塗膜のモデル
今回はいつもの漆の説明からちょっと脱線して‥、
「うるしの塗膜がどんな構造になっているのか?」についてのお話です。
このnoteでは、漆の塗膜構造を下のようなモデルでご紹介してきました。
主成分のウルシオールからできた重合体の海(含窒素物も一緒にいるよ)に、ゴム質の粒(水分が蒸発して干乾びた酵素ラッカーゼも一緒にいるよ)が泡のように散りばめられている‥というような塗膜断面の構造です。
現在ではこのモデルが一般的になっていると思うのですが、ちょっと前の本や学術誌では上の図とはだいぶ違った塗膜のモデルが示されていました。
それが、こちらの図になります。
このモデルでは、ウルシオールの重合体が外殻にゴム質(水溶性多糖類)と含窒素物(糖蛋白)でできた層を持つという2重構造の粒子が漆塗膜を構成する主な要素になっています。
そして、その粒子が無数に整列している隙間を、粒子化していないウルシオールと含窒素物による反応物がつないで塗膜全体を構成しています。
1978~84年頃に登場して(入手出来ていない文献もあって、初出がどこか判りませんでした)~2012年頃の書籍まで、この塗膜構造のモデルが採用されている例が多数あります。
初めてうるしという素材に出会ってから数年が経ち、
「うるしという素材をもっと知りたい!」と思っていた私は、様々な文献で同時にこの2つのモデルに出会って、とても困惑しました‥。
文献Aと文献Bで漆塗膜の構造があまりにも違うので、
「え‥?どゆこと??」という感じです。
「ゴム質って水溶性だよね‥?」
「水溶性の外殻にくるまれている粒子がびっしり並んで塗膜を作ってるなら‥、一度水が入り込んだらパチンコ玉の箱をひっくり返したみたいに粒がバラバラになって塗膜が崩壊するんじゃない?」
「それって、そもそも漆椀とか成立しなくなるんじゃない?」
という疑問が湧いてしまい、この2重構造の粒子が整列したモデルはさっぱり意味が分かりませんでした。
ところが1996年頃には、この「ゴム質と含窒素物の層を外殻にもつ2重構造のウルシオール重合体の粒子」の存在に疑問をもつ報告(※1)なども出てくるようになりました。
そして、最新の機器で漆塗膜を観察してみても、どうもウルシオールの粒子が整列しているような感じはなさそうなのです。
そんなわけで、この「ウルシオール粒子の整列塗膜モデル」については、ちょっと前の説‥という扱いで考えていきたいと思います。
※1 「EPMAによる漆塗膜の観察」渡部 修、齋藤 宏、丸山 泰仁(1996年 色材69 巻 12号 p.834-839)
「ウルシオール粒子の整列塗膜モデル」を考えてみる
このモデルを作られたのは、東京大学の熊野谿 從 先生です。
「熊野谿 從(くまのたに じゅう)1923-2020 工学博士 高分子化学者 東京大学・愛媛大学名誉教授」漆に関する研究報告や著書多数
熊野谿 先生の研究報告を色々探してみると‥。
1980年代前半にはこのモデルが頻繁に登場するようになるのですが、「漆の塗膜が粒子状の構造になっている」という着想は、すでに1978年の時点で出てきています。
「天然漆における三次元化」熊野谿 從、大島 隆一、阿知和 宗男
(1978年 合成樹脂工業協会 討論会講演要旨 28巻 p.73-76)J-STAGE
この研究報告では、黒目漆が常温で硬化していく過程でベンゼン(硬化しきっていない漆膜に対しては結構溶解力の強い有機溶剤)で可溶分を除去した漆膜を走査電子顕微鏡(SEM)で観察した写真(p.76 図5「反応過程における球状粒の成長」、PDFの4ページ目)と、「明らかに2~3μmの球状粒から、3次元化がすすんでいることが分かった。これらの球状化の過程で先に述べたウルシオールとゴム質成分の複合化が起こってゆくものと考えらえれる。」という記述がありました。
上の文献から1978年の段階では、
SEM観察によって、現に塗膜の中に粒子による立体的な構造が確認できたことから、「ウルシオールとゴム質成分が複合化した2~3μmの球状粒子が塗膜を構成している」と考えられていたことが判ります。
そして、1983年の発表内容では、
この塗膜構造がさらに小さい単位の粒子で構成されていることが述べられています。
「漆 URUSHI」熊野谿 從
(1983年 日本皮膚科学会大阪地方会 皮膚 25 巻 3号 p.416-421)J-STAGE
この研究報告では、ウルシオールの粒子が以前の研究報告にある「2~3μmの球状粒」よりもさらに小さい約0.1μm(100nm)の大きさで、ウルシオール重合体の中心核を厚さ3~4nm(1nm=1000分の1μm)のゴム質(稿中では「多糖類」との表記)の外殻が覆っていて、粒子間がウルシオールと含窒素物(稿中では「糖蛋白」との表記)によって充填されている‥と、述べられており、粒子構造を観察したSEM観察画像(p.421 第9図「黒目漆膜の粒の構造」、PDFの6ページ目)も掲載されています。
この1983年の段階で、
その後2012年頃まで見られる「厚さ3~4nmのゴム質の外殻がウルシオール重合体を覆う2重構造の約0.1μmの球状粒子が塗膜を構成している」という塗膜構造のモデルが出来上がっていることが判ります。
以上、研究報告を追ってみましたので、お時間の許す方は「J-STAGE」から元文献をご参照ください。
それでは、この「ウルシオール粒子の整列塗膜モデル」について、私なりに考えていきたいと思います。
あくまで‥。
理系じゃないし化学もよく解っていない、SEM観察の実務経験もない素人、「ただの漆好き」による考察になります。
間違ってたら、すいません。。
考察 ①
1978年の「天然漆における三次元化」に掲載された走査電子顕微鏡(SEM)で観察した写真(p.76 図5「反応過程における球状粒の成長」、PDFの4ページ目)について。
この段階で示されているSEMの画像は5μmのスケールが表示されていて、「ウルシオールとゴム質成分が複合化した2~3μmの球状粒子が塗膜を構成している」と言われれば、確かに納得できるような様子をしています。
ですが、その後30~40年間分の漆研究にも触れている我々はすでに、「漆膜中にウルシオールの粒子整列構造がおそらく存在しないであろうこと」を知っており、「現在のうるし塗膜のモデル」がどういうものかも知っています。
では、何故このような粒子が見える画像が観察されたのでしょうか?
ここで気にしたいのは、観察された黒目漆の塗膜試料が硬化過程でベンゼンに浸漬されて、ベンゼンに溶け出した「何か」が抜け落ちた状態になっている‥という点です。
前回の記事で、
「漆の塗膜は塗膜一層がすべて均一な硬さになっているわけではなく、架橋密度が高くとても硬く緻密になるところと、それほどでもないところ‥という硬さのムラのようなものができる」ということを説明しました。
ベンゼン浸漬によって塗膜中の「何か」が溶解する過程で、この硬さのムラが影響している可能性があるような気がします。
漆の塗膜は、ウルシオールを酸化させる酵素のラッカーゼがいるゴム質水球周辺のウルシオールほど架橋密度が高く、硬く緻密な構造を作って硬化していきます。
この「架橋密度のイメージ図」を、「現在のうるし塗膜のモデル」に落とし込んだ図を以下に作成してみます。
この2つを合体させると‥。
こんな感じになります。
そして、この塗膜をベンゼンに浸漬したとき、硬化過程のウルシオールのうち「比較的架橋密度の低い部分」が、塗膜表面から溶解していった「何か」だと考えたら‥。
架橋密度の高いゴム質球周辺部分のウルシオール重合体は溶けずに残されて、こんな感じになるのではないでしょうか。
そして、この断面を上から観察した場合、1978 年の「天然漆における三次元化」に掲載された走査電子顕微鏡(SEM)で観察した写真(p.76 図5「反応過程における球状粒の成長」、PDFの4ページ目)の画像のように見えるのではないでしょうか?
考察 ②
1983年の「漆 URUSHI」に掲載された走査電子顕微鏡(SEM)で観察した写真(p.421 第9図「黒目漆膜の粒の構造」、PDFの6ページ目)について。
この観察画像には1μmのスケールが表示されていて、塗膜上に約0.1μmくらいの粒子がびっしり並んでいる様子が確かに見えます。
これはどう考えればよいのでしょうか?
このSEM画像について、稿中では「色々工夫して撮影した」とだけしか書かれていませんが、同じ1983年に発表されている「漆-文化財とのかかわり」熊野谿 從(1983年 日本化学会 化学と工業 Vol.36 No.3 p.189-192)
によると、黒目漆の塗膜から薄膜を切り出してイオンエッチングをした試料をSEM観察しているそうです。
また、後年にご自身の研究をまとめられた書籍「漆 古代から現在-未来、そしてアジアから世界へ」熊野谿 從(2007年 東大教材出版)では、「漆を10~30回塗り固めた漆膜を湿度50%に数日保って1mm幅に切り出し固定して試料から1000オングストローム(100nm)の厚みの薄膜を切り出し、イオンエッチング法により鮮明な微粒子の構造を見出すことが出来た。」として、1983 年の「漆 URUSHI」に掲載された走査電子顕微鏡(SEM)で観察した写真(p.421 第9図「黒目漆膜の粒の構造」)と全く同じ画像を掲載されています。
イオンエッチングとは、イオン化空気で試料表面を削る前処理の工程です。この黒目漆のSEM観察でイオンエッチングによる前処理を導入している理由は、塗膜の断面をきれいな直線状態にカットするためではなく、塗膜断面の粒子の凹凸を際立だせるため、すなわち「ウルシオール粒子の整列塗膜のモデル」でいうところの、粒子間をつないでいるウルシオールと含窒素物の反応物をイオンエッチングで除去して、球状粒子を鮮明に観察しようという意図によるものでした。
これで、SEM観察の条件は判りました。
しかし困ったことに、私自身は走査電子顕微鏡(SEM)を使った観察の実務経験もありませんし、ましてイオンエッチングによる試料の前処理をした経験もありません。
従って、これについての考察は、資料を頼りに推測に推測を重ねたものになります。見当違いだったら、すいません。。
まずは、この時期のイオンエッチングについて調べてみました。
すると、熊野谿 先生の名前も執筆者の中にある1979年の研究報告を見つけることが出来ました。
「イオンエッチング処理によるエポキシ樹脂破断面の構造」阿知和 宗男、中西 茂子、熊野谿 從
(1979年 合成樹脂工業協会 討論会講演要旨 29 巻 p.97-100)J-STAGE
この研究報告では冒頭に、
「走査型電子顕微鏡(SEM)による観察から生体や高分子個体の構造組織をより詳しく調べるための種々の試みがなされているが、最近、そのための有力な方法の一つとして、イオンエッチング法が適用されている。また、イオンエッチングのための装置が数社より市販されている。しかし、未だにこれを応用した結果についての報告は少なく、色々の試料に対するイオンエッチング処理の最適条件は殆ど不明である。」
という導入がありました。
1979年の時点では、SEM観察のための前処理として行うイオンエッチングの処方が、まだまだ手探りであったことが伺えます。
また、この研究報告ではエポキシ樹脂の断面に対して様々な条件でイオンエッチングを行っているのですが、その中でちょっと興味深い記述を見つけました。
p.100 4-(2)
「エポキシ樹脂に対するイオンエッチング効果は、エッチング初期で球状組織(直径約0.1μm)の連続体としてあらわれ、さらに強いエッチング又はエッチングの継続により、組織間の溝が深くなり、同時に球形部の直径が幾らか小さくなり(Fig.13CD)棒状組織が形成される。さらに強い条件では、全体的に均等であった組織が不均一で粗大化した構造に変化する(Fig.12D)」
おや‥??
「直径約0.1μmの球状」というのは、どこかで聞いたことありませんか?
さらに稿中で示されている(図.13のCとD)や(図.12のD)のSEM観察画像
( p.99、PDFの3ページ目)を見てみると、1983 年の「漆 URUSHI」に掲載された走査電子顕微鏡(SEM)で観察した写真(p.421 第9図「黒目漆膜の粒の構造」)の画像と同じような感じに見える直径約0.1μmの粒子構造を確認することが出来ます。
それでは、エポキシ樹脂も直径約0.1μmの球状粒子の集合体で構成されているのでしょうか?
インターネットでエポキシ樹脂の構造やSEM観察画像などを検索してみましたが、そういう感じの情報は確認できませんでした。
とすると‥、
この「直径約0.1μmの球状粒子」の正体は、黒目漆やエポキシ樹脂の構造がイオンエッチングによって浮き出たものではなく、イオンエッチングによる切削痕そのものなのではないでしょうか?
(「考察 ①」のウルシオールの架橋密度差が作り出す硬さの違いをイオンエッチングが粒子の凹凸として浮き彫りにした可能性もありますが、その場合、粒子の大きさが「考察 ①」のときの10分の1程に小さくなっていることを説明できません。)
そこで、イオンエッチングがこのような球状の切削痕を作る例があるのかどうかを調べてみることにしました。
すると‥、色々と探しているうちに次のような研究報告を見つけました。
「イオン衝撃による表面コーンの発現」奥山 文雄
(1992年 公益社団法人 応用物理学会 応用物理 61 巻 12 号 p.1259-1263)J-STAGE
この研究報告には、「イオンエッチングをすることで、コーンと呼ばれる台形→円錐状の表面突起が発現することが課題になっていること」や「コーンの構造は、単に試料表面が削れて円錐形の突起が出来ていくというだけでなく、積層して上に伸びて成長していくこと」などが記述されていました。
あ‥。これかも。
「直径約0.1μmの球状粒子」にみえた黒目漆塗膜の試料には、イオンエッチングによって「コーン」が発生していた。
そう考えるのが妥当じゃないか、と思えてきました。
また、
「イオンエッチング処理によるエポキシ樹脂破断面の構造」阿知和 宗男、中西 茂子、熊野谿 從
(1979年 合成樹脂工業協会 討論会講演要旨 29 巻 p.97-100)
の研究報告の中で、実験のイオンエッチングに使われていた装置「エイコー社製イオンコータ IB-3」について調べていたところ、この装置を持っている研究所の手書きの機器操作マニュアルを見つけることが出来ました。
http://www.nips.ac.jp/emroom/IB3_Manual/IB3.pdf
(大学共同利用機関法人 自然科学研究機構 生理学研究所 IB3 Manual)
こちらの操作マニュアルの13ページ目には、
「スパッタエッチング操作法 1. 試料の作成:アセトン乾燥、臨界点乾燥法等により、完全に脱水・乾燥した試料を用意します。水分が残ったままエッチングすると”コーンフィギア”が形成されることがあります。」
という記述がありました。
いつの時代に書かれた操作マニュアルなのかは不明ですが、この「エイコー社製イオンコータ IB-3」の使用時に、「水分の残った試料でイオンエッチングをするとコーンが形成される」ということが共有すべき知見としてあったことが判ります。
さて、「直径約0.1μmの球状粒子」がSEM観察で確認された黒目漆の試料の作成手順は、「漆を10~30回塗り固めた漆膜を湿度50%に数日保って1mm幅に切り出し‥」というものでした。
漆膜中のゴム質球は水溶性で、塗膜の硬化後も一定の吸湿性を持っています。湿度50%の環境下に数日間養生されていたとすれば、少なくとも「完全に脱水・乾燥した試料」であるとは言えません。
そのため、薄膜を切り出しやすくするために吸湿した漆膜は、コーンが形成されやすい「水分を含んだ試料」になっていて、この条件で試料作成された漆膜は、結果的にいつもコーンが発現する状態でのSEM観察になっていたのではないでしょうか?
1978年の段階で、ベンゼンに浸漬した硬化過程の塗膜の中に粒子による立体的な構造が確認できたことから、「ウルシオールとゴム質成分が複合化した2重構造の球状粒子が塗膜を構成している」と考えて‥。
SEM観察の前処理として利用されはじめたばかりのイオンエッチングを使って、その粒子構造を鮮明化しようとした結果、当時はまだそういう現象が広く認知されていなかった「コーン」を「約0.1μmのウルシオール粒子」だと判定してしまった。
その後は「コーン」が粒子状に並んで見えるような観察画像が得られるように試料作成やイオンエッチングの条件出しをしてしまったために、粒子構造に見える塗膜観察の再現性もとれるようになり、「ウルシオール粒子の整列塗膜モデル」が出来上がっていった。
‥と、資料数珠つなぎで想像してみました。
どうでしょうか?
むすび
今回の考察は、なんらの再現実験も経ていないただの個人的な推測です。
「私の中では現時点でこんな理解になってますよ~」という以上のものではありません。
仮に、「ウルシオール粒子の整列塗膜モデル」が推測の通り「SEM観察におけるイオンエッチングの処方がまだ確立されていなかった時代背景が作り出したもの」だったとしても、未知の状態から「漆とはどんなものか?」を探求されてきた熊野谿 先生の研究が色褪せることはないと思っています。
今回の件で色々と検索していると‥、
なんと、熊野谿 先生のラジオ出演を発掘しました!
聞いていると、熊野谿 先生のうるし愛が伝わってきます。
是非、ご視聴ください。
「調布わくわくステーション」
やじさんの番組紹介 2007年4月22日のお客さま
東大・愛媛大 名誉教授 熊野谿 從さん