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daughter

娘は2000年生まれで現在20歳。

娘が生まれた朝、当然のように二日酔いだった私は、
「ここから酒をやめて生き直すんだ」と、強く強く思った。

酒臭い息を吐くのをこらえ、両手のひらに乗ってしまう
くらいに小さな生まれたての命を胸に抱きながら、
確かに私はそう誓ったはずだった。

その後、「うつ」と診断され、「自宅療養」で休職した
私に与えられた唯一の仕事は、娘を保育園に送り迎えすること。

朝、二日酔いのボーっとした頭で保育園へ娘を送り、
その帰りにコンビニで缶チューハイを買い込んで夕方まで
泥酔しない程度につないで、
(「つなぎで飲む」というのはアル中の証拠だと思う)
自転車で迎えに行く。ついでに「本格的に飲む分」の買出し。

仕事は休職扱いだったから、給料は出ていた。
だから私は「自分の稼ぎで飲んでる」と思っていたし、
「医者が自宅療養だと言ったからそうしている」と
豪語してはばからなかった。

家族に懇願されて初めての断酒の踏み切ったのが2003年。
娘が3歳の時だった。

「しばらく止めてみせて、ほとぼりが冷めたら節酒でいこう」
くらいの気持ちだった。

8ヶ月後、奈落の底に落ちていくような連続飲酒。
よく覚えていないのだが、私はその時、妻と子供に

お前らぶっ殺すぞ!!

と叫んだらしい。


その後、アルコール専門のデイケア型リハビリに通うようになり、
そこからAA(アルコール依存症者の自助グループ)につながり、
それでも酒をやめられず失敗を繰り返し、妻と家族を巻き込む
修羅場を再現し続けた。

2007年、七夕の短冊に
「父ちゃんの病気がよくなりますように」
と書いた当時7歳の娘。
どんな気持ちで、彼女はそれを書いたのだろう。

その頃の私は、専門学校の2年目で、成績でトップを獲ることが
回復の証だと信じていて(←こういう謎の信念で飲むことを正当化
できると思い込むのが典型的な依存症)、
期間限定の馬鹿力でそれを実現し、
「父ちゃんはたくさん勉強して疲れたからご褒美だよ」
などと娘に言い訳しながら、また連続飲酒に飲み込まれていく。

七夕の短冊に父の病快癒を祈った娘よりも酒が大事だった
わけではない。ただ、酒を飲んでいないと頭の体も動けないから、
どうにもならないから飲んだ。
この期に及んで言い訳をするつもりは全くない。
けれども、飲むことしか、できなかったのだ。

どうしたら、償えるのだろう。
否、これは多分、償うとか償えないとか、そういう類の話ではない。
やってしまった事実は、何をしようと変えられないのだ。

できることは、今、酒を飲まないこと。
その「今」の連続をつなぎ続けることだ。

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