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私はそれを赦すことができない。


むかーし昔。
日本がバブル景気に浮かれていた頃の話。
私は大学生だった。

入学して半年もするとお祭りのような毎日にも飽きてしまって、
ちょうど目についた交換留学生募集に応募し、
翌年には日本を出た。

場所は天安門事件直後の中国。
北京から南に100キロほどのところにある天津にある大学。
期間は1年。動機は、広い世界を見たい。それだけだった。

大学に通ったのは最初の数ヶ月。
中国語の日常会話には困らないくらいなったら、
あとは体力と気力の続く限り中国各地を旅して回った。

バブルの日本とは対極にあるような貧困地域や、
何年も世界を放浪するバックパッカーの溜まり場を渡り歩く旅だった。
思い返せば別に偉いことや凄いことをした訳でも何でもない。

でも、当時の私は、明らかに自分に酔っていた。
母国のバブルには目もくれず、自らの意志でアウェーを旅する自分に。

1年後に帰国すると、
日本では、まだバブリーなパーティーを続いていた。
ここから北へ数千キロ、4時間も飛べば、幼い子供に物乞いをさせる
親がたくさんいるのに。
あきれた。嫌悪した。馬鹿だと思った。軽蔑した。

そんな私を拾ってくれた政治学系のゼミに入って、
自分を理論武装しながら、大学近くにある安い飲み屋に入り浸る
ようになるまで数か月もかからなかった。
真面目に生きる価値のない世の中だと信じていた。

ゼミの先生の紹介で、ある環境問題の現場に出かけるようになったのは、「生きる価値のある現実」を探していたのだと思う。

「俺は凄い」という自己陶酔と、世の中に対する軽侮の念でパンパンに
ふくれ上がった私の自我には、「環境問題の代弁者」という新しい服は
とても心地よかった。

くだらな過ぎる世の中に一石を投じる。それが私の使命だと思っていた。
この頃になると既に酒は手放せないものになっていたので、
もともとの自己陶酔に加えて、正真正銘の酔っ払いに成り下がってもいた。

本当に世界を嫌悪・軽蔑していたのなら、関わりを断てばいい。
インドにでも行って、有り金全部を酒とハシシに換えて、
そのまんま沈んでしまえばいいのだ。
何も難しいことではない。
しかし、私はそれをしなかった。

就職してからも環境問題のNGOに参加して、世の中に関わり続けた。
軽蔑している世の中から、見捨てられることが怖かった。
馬鹿にしている世の中から、忘れられるのが怖かった。
だから私は関わり続けた。
「環境問題の代弁者」として。
「正義感」を持って。
怒りと蔑みを、アルコールと一緒に飲み込みながら。

そんなもん。
うまくいくはずがない。
上から目線で「警告を発してやっている」人の話を聞いてくれるほど、
人々は暇ではない。
それでも私はこだわり続けた。
正しいのは自分で、間違っているのは奴らだ、と。

「真面目に生きる価値のない世の中」で、
私を振り向いてくれる人はいない。酒はますますひどくなっていく。
致命的なボタンの掛け違いは修正されないまま、
私は「環境問題の代弁者」をやめた。
いや違うな。
環境問題よりも酒を飲む方を選んだのだ。

今、世の中はSDGs 真っ盛りである。
就活の面接で環境問題を口にする僕に「あんた何様?」と
のたまった企業は、
今では、「エレクトロニクスNo.1の「環境革新企業」…(中略)
…全事業活動の基軸に「環境」を置き、持続可能な社会の実現に貢献…
(中略)…業界の先頭に立って取り組む」(当該企業のHPより抜粋)
そうである。猫も杓子も「地球にやさしくSDGs」。
地球環境に大動脈損傷くらいの傷を負わせながら、
100均で買える絆創膏を貼って自己満足しているようなSDGs。

私はそれを我慢できない。
その軽薄さを。
そのいい加減さを。
その厚顔無恥を。
その馬鹿さ加減を。
そのポリシーの無さを。

私の言い分が、酒を飲むための口実であったことは認める。
それでも、やはり許すことができない。
ポジティブにエコを発信する世の中を、
それを何の疑いもなく受け取る世の中を、
私はいつも鼻で笑っている。馬鹿にしている。

ゴミの分別は、なるべく適当に。
洗剤は、できるだけ「エコじゃない」ものを。
情けないくらいにせこい、そんなことをしながら、暗く「エコ」を笑う。
私は、世の中が嫌いだ。
人間が嫌いだ。大嫌いだ。
こんなに嫌いなのに、関わっていかないと生きていけないのだ。

一体、どうすればいいのだ?

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