他者の生の見物人として過ごす|傲慢だとわかっているから、時間をかけて向き合う
新幹線、電車で通勤しながらパソコンを開いて仕事ができるようになった。
何か起きる度に、いかに速く情報を入手し届けるのか、反応するのかを争っている。
スーパーのセールも、就職活動の返事も、基本的に早い者勝ちが当たり前。
「時間をかけることは悪である」と訴えかけるものに囲まれて生きる中で知らず知らずのうちに何事も時間をかけないこと、1日で多くのタスクをこなすことを大事にするようになった。
資本主義社会に生まれ落ち、生きていこうとする人間にとってはやっぱりこの「時は金なり」精神も必要なんだとは思う。でも2025の山本のテーマは少なくとも「時間をかけること」なのである。
「時間をかけることは悪である」この自分自身のかけている色眼鏡が自分を苦しめられてると感じたのは、去年の10月ぐらいだった。
きっかけは10月に始めた「外国にルーツを持った人のライフストーリーを第三者に届ける」こと。なんだか長いけどでもこれ以外に縮めて言いようも無いので、この表現で失礼します。届けるための媒体はinstagramを使うことにして、「多様性図鑑」という名前をつけた。
ライフストーリーをインタビューして、「外国人」と一般化されたらこぼれ落ちてしまうその生き方、日本との繋がりの多様性をいろいろな人に知ってもらいたいと思って始めた活動だった。でもこれが違った。「知ってもらいたい」「届けたい」に見られるように私は神の視点に立っていたのだった。
実際にインタビューを始めてみると、自分自身が得る気づきの多さ、情報量の多さに打ちのめされた。
インタビューとは一方通行なものではなく双方向性のあるコミュニケーションであり、紡ぎ出される言葉にはその場におけるインタビューする側、される側の関係性までもが含有されていることを感じ取ってしまったのだ。
「知ってもらう」前に自分が相手を知り、「どんな歴史や制度がその人の生きている今に関連しているんだろう」とその背景にあるより社会構造的な背景にまで考えを及ぼすことが、抜かせないステップとして現れたのだ。
ただ「より多くの人に読んでもらうこと」「より多くの人にインタビューすること」を大事にするならきっと抜かせるステップかもしれない。実際に、より一人一人に丁寧に向き合うことでインタビューをして、記事を書き上げるまでに15時間要したことは自分自身の中に戸惑いを生んだ。「こんなに時間をかけてていいんだっけ?」みたいな感覚だったと思う。
だが他人の人生を一つの記事に私が自分の言葉でまとめ、それを第三者に届けることはやっぱりどこか暴力的なのだ。だからこそ私はその時間のかかるステップを抜かしたく無い、というより抜かせない。一度はさらっと、最低限言葉を整えるだけで書き上げようともしたが、できなかった。一つ一つの言葉選びや自分の向き合った1人のストーリーを誰に、どんな言葉で、どんな構成で届けたらいいのか、悩まずにはいられなかった。
インタビューをして、文字に起こして、加工して、誰か第三者に届けようと世に出す道のりは、極めて内省的で時間をかけずにはいられないものだ。2025は、そんな感覚を大事に歩み、自分が出会う人々のライフストーリーを自分以外の誰かに届けることに一生懸命な日々を送ろう。
最後にただ一つ、気をつけたいこととしては、「時間をかけて向き合う」その言葉を、何週間も書き上げず手が止まる自分を甘やかす呪文にしないことだ。
一方では思うようにいかない自分の筆運びから目を背けず、
もう片方では時間をかけることは厭わずに人と言葉、そして執筆に向き合う
2025はそんな年です。
山本
ちなみに写真は2023年に行ったタンザニアでの一枚で
はじめて、時間というものから解放されることを体感した数週間だったのでこの写真にしました
あとあと、最近始めた「多様性図鑑」のQRコードとリンクもしれっと貼っておきます。
きっとぼちぼち記事を投稿していきます