自分迷子
憧れにはなれない。
この言葉を聞くとなんだか虚しくなる。
人生は一度きり!なりたい自分にならなくちゃ!と意気込んで、生活を改めて早3年。憧れにはなれない、という事に気がついた。
大学3年の春、僕はバイト先の先輩の勧めで学生経営の地域産品セレクトショップをする団体にデザイナーとして参加した。
そこは地方から上京した経営者志望の子らが集まり経営をプロから学び、実践を通じて学んでいくものである。
この団体に参加して1番の驚きはそれぞれ個性に溢れすぎている事だ。各々自分の出身地大変リスペクトしており、その魅力を伝えたい!という情熱で溢れている。
「あなたの好きなことは何ですか?」
この質問は1番簡単で難しい質問だ。
多くの場合この質問に対しての回答は、推し活の内容や趣味を答えるだろう。
しかし、ここに参加している子らはこの質問に対して、「〇〇(出身地)が好き!」と答えるほど郷土愛に溢れたボーイズ&ガールズだった。
暑苦しいぐらいの郷土愛は、論理性やデータを突き抜けて人の心を動かす事を彼らから学んだ。
全く郷土愛がない僕は、(いや、郷土愛はあるが何のどこが好きか言えない、といった具合だろうか)人の心を動かすのは論理性であるという、冷たいモノに狂信していた。
何か伝えたい魅力がある時、それのどこがどの様に素晴らしくて、尚且つ人の心のどの部分にアプローチするか(時に歴史からも情報を取ってきたりなんかして)をロジックベースで考えていた。
正直、自分の好き!を伝える時論理性はある程度犠牲にしてでも情熱で押し切る、という戦法はあまり好きではなかった。
言語化も出来ない事を熱量だけで伝えるのは幼稚であると心の中でバカにしていた。この時だけは何故か自分が神にでもなった様な気がしていた。
だが、この戦法は実に人間くさい。
情熱の中からその人のパーソナルな部分が見えてくる。それがロジックベースで話す説明とは圧倒的に違う事だ。パーソナルな部分が見えてくると、途端に応援したくなる。応援したくなると、その人の言葉一つ一つが心にダイレクトに届く。
ロジックベースで導き出した答えには、そんな「らしさ」がない。
その説明文が名前もなく空中に浮いていたら、誰のか分からず、交番に届けられるだろう。それぐらい「誰でもない感」がある。
もちろん場合に応じて、情熱ベースかロジックベースかは使い分けやバランスが必要だが。
こうして、その団体での活動を通じて急遽「自分らしさ」に向き合う事となった。
分かっているはずだった自分が急に見えない所に行ってしまった感じ。
「憧れにはなれない」
これはマイナスなイメージを持つだろうと話したが、決してマイナスなイメージな事ではないと分かった。
憧れにはなれない=自分らしさは退かせない
という事だ。
誰の中にもある「自分らしさ」が憧れとの距離を一定に保ってくれているのだ。
本当は寡黙な孤高の天才に憧れる。
こちらから迎合せずとも、持ち前の圧倒的なカリスマ性に、みんなが魅了され、自然と後ろを付いてくる人が出る。そんな人だ。
そのために服をはじめ、所持品の端から端まで皆んなが持ってないモノで揃えようともしたし、あっと思わせられるように論理性ある人にもなろうとした。
が、僕は全くそんな人にはなれてない。
どうやらほぼ真逆な人間らしい。
隙だらけで話しかけやすく、ふらふらと遊びに行ってしまうような。そんな人。
そんな人間が無理に自分を取り繕って、「自分らしさ」を知らず知らずのうちに失っていたのだ。
憧れになるために努力している時は、盲目なもんで、そんな事に気付けない。
最も大事なのは「自分らしさ」を「自分らしさ」と認識している事が大切だったのだ。
「あなたらしさを忘れないで!」なんて何処かで聞いたよくある言葉で、みんなじっくり考えない事かもしれない。
僕はその言葉を実際に体験した。
また一つ成長してしまった。
今では少しずつ、俺に深み出てきたんじゃ?と思って、今日も気の向くままにほっつき回る。
実に、自分らしい。