魔法は一瞬
僕は飛行機の離陸の瞬間が大好きだ。
普段身近にあるが何も感じ重力という存在を存分に味わえる。
まつ毛の先端にまで重力が大いにかかり、目が開けられなくなりそうなほどだ。
僕はあの瞬間を全身で待ち伏せしている。
急に姿を現した重力にワクワクと同時にスリルを感じ、やみつきになる。
離陸後の楽しみは何も重力だけではない。
住み慣れた街、あるいは存分に楽しんだ旅先を神様になった様に俯瞰してみれる。
今墜落しても生きてられそうだな、と思う高度から街が雲に隠れて街が見えなくなる、このグラデーションでご飯3杯は余裕だろう。
一方で着陸後はあまり好きではない。
特に帰りは日常に戻され、「バイト頑張らなきゃな」とか「あのお土産は〇〇日までに渡さないとな」とか、機内で感じていた重力にかわって、悩みが重くのしかかってくる。
なんと言っても、一つのビッグイベントが終わってしまった儚さ、何か一つ大きな物語を読み終えてしまったような気分になる。実に寂しい。
話は変わるが、21歳の現在、どうにも幼少期のような発想力がない事に焦りを感じてきている。
まだ早いだろ!とおじ様達からツッコミが入りそうだが、もう体も重いし、運動神経とやらを心から求める事が増えてきた。
が、そんな事は何とかなりそう。
というのも筋トレをしたり、継続的に運動をすれば解決できそうという希望があるからだ。
しかし、想像力というのはどうにも解決策が見つからない。
デザイナーとしてバイトしている事もあり、誰にも想像できなかったが、クリティカルでニーズを満たした発想を心がけてきたし、そのための本や練習をしてきた。
しかし、そんな過程の箱から飛び出してくるのは、他人の存在を前提にした突拍子もないアイディアだけだ。
赤ちゃんや小学生が発想する"ありのままのアイディア"はあの時期だけの専売特許なのかもしれない。
幼い頃、車の窓から見た雲は何かに見えて仕方なかった。
猫だったり、飴だったり、走っている人だったり。
それを親に伝えても、どこか上手く流されていたのは子供ながらに理解していた。
でもその理由が何となくわかってきた気がする。
「ほら!あの雲だよ、あの雲!猫が寝転んでように見えない?」と小さい子に言われても、大人は空気中にランダムに寄せ集まった水滴の塊にしか見えないのだ。
頑張って見ても綿アメぐらい。
もはや雲を見上げることすらしなくなったかも知れない。
そんな悩みを抱えた僕だが、飛行機の中では違った。
重力を存分に楽しんだ離陸直後は、雲が何かに見えて仕方ないのだ。
小さい子が電車の窓を全力で見ているように、僕も飛行機の窓にへばり付いていた。
僕には宇宙戦艦ヤマトにしか見えない巨大な雲があった。何か自然の息吹的なものを感じた(いや、感じた!と自分に言い聞かせ)フィルムカメラのシャッターを切った。
この雄大さが伝わっているか、ボケていないか、すぐにカクニンできない所がやっぱりフィルムカメラの好きなところだ。
数日後他の思い出も背負った期待のフィルムをデータ化した。
その雲はただただキレイに写った雄大な雲。
それだけだった。
魔法はその一瞬しか効果を発揮しないのだろう。
深夜のフライト。
機内は真っ暗だが、飛行機でかかる魔法に魅了されている僕だけは、起きるために読書灯を付け、俳優の堺雅人さんの著書「文・堺雅人」を読んでいた。
まるで今から劇が始まるんじゃないか、と思うぐらい暗闇の中を一筋の青白い光が僕をライトアップする。
また新しい物語が始まりそうだ。