どうやら世の中にはとんでもなく低い国語力で語ってくる奴がいるらしい。
コロナが猛威を振るっている最中、僕は浪人していた。
マスクの着用は当たり前で、机のいたるところに透明のプラ板の仕切りが設置されているような環境だった。当然、予備校の入り口には検温カメラが設置されていて、嫌でも毎日自分の体温を知らなくてはならない、そんな状況下だった。
朝で寝ぼけた自分の顔と36.4℃、前日ラーメンが響きまくったむくみ顔と36.2℃、全然成績が上がらない事に気がついた朝の絶望した顔と36.5℃。
自分の顔って本当にいろんな表情しているんだなと思った。そして自分の平熱が大体36.4℃ぐらいということを知った。
ある日、いつものように検温カメラの前に立ち、表示された体温に目をやると、とんでもない事実に気がついてしまった。
それは、自分の体温よりも国語の偏差値が低い、という事実にだ。
これは衝撃的だった。
なぜなら浪人してるからだ。
たまげたよ、ほんとに。
結局予備校を卒業するまで、この事実が覆ることはなかった。
一方で小論文はめちゃくちゃ得意だった。理由はわからない。
九大本番の小論文では8割以上だったし、河合や駿台の模試でも結構上の方だった。あくまでも小論文に限った話だが。
しかし同じ日本語を使う教科でもこんなにも差が出るもんかね。
まとめると、僕は他人の気持ちは全然理解できてないし、言ってることも理解できてないが、自分の考えてる事はめちゃくちゃ饒舌に話す、という絶対に友達になりたくないタイプの人間だということだ。
この事実に気づいて以来、何かと自分の国語力にコンプレックスを抱くようになった。
友達も多くいたし、いろんな人と仲良く話せるタイプの人間だったので日本語、少なくとも会話や人の気持ちを考えるという面では問題はなかったと思う。が、偏差値で自分の国語力が数値化された途端に、長年付き添ってきた「日本語」に距離を感じるようになってしまったのだ。
今ではレポートや資料を作成するとき、一度自分の言葉で伝えたいことを文字に起こしてから、ChatGPTに正しい日本語に直してもらう日々を過ごしている。
相対化の世界に入り込んだ途端、個性を失うことはよくあるだろう。
悪目立ちを避けたりするために全員が正解と認めるものへと寄せていく。
そうした方が余計悪目立ちするのに。
僕のこの日本語も、いわゆる受験勉強で正解とされる日本語として評価されれば平熱ぐらいの偏差値だが、ブログやエッセイを書いた日本語として評価されると違ったものになる。
つまり"ヘタクソ"なんてないという事だ。
環境や表現するものが変われば、評価は大きく変わる。
何も絶望までしなくていいのだ。
AI時代において、この下手くそな日本語は最高に武器になる。
AIを使えば誰でも簡単にストーリーを綺麗な日本語で生み出せる。最高だ。
しかし、作者やその人の背景がなくなると、もはや誰が誰のかわからなくなる。誰でもない文章で何者かになろうとしているのだ。
誰かから見聞した受け売りの言葉で語っても誰にも響かないように、その人「らしさ」が滲み出る、これが非常に大切なのだ。
起承転結が無視され、語順もバラバラなことが僕の日本語に「らしさ」を与え、こうして人に読んでもらえている。
ここまで長く書いてきた事をまとめると、
と言いたいところだが僕の国語力ではまとめ方が分からなかった。
が、自分が開き直ってることだけは分かった。