たとえ、もどらなくても
私は小さなパン屋で働いでいる。
別にパン屋で働くことが夢ではなかったが、理由があって働いている。
うちのパン屋はそこそこ人気があり、お客さんが途絶えることはない。
人気商品はクロワッサン。
そのクロワッサンを毎日買いに来てくれる男性がいる。
毎日、私が商品を手渡す際に、「いつもありがとう」と言ってくれる。
それが唯一の喜びだった。
ある日の店じまいの時、その男性が私を呼び止めた。
彼は私に告白をしてきた。
すごく嬉しかった。
嬉しかったけど、私は首を縦に振ることはできなかった。
彼のことが嫌いなわけではない。むしろ、好ましく思っている。
私は独身で恋人もいない。
だけど、彼の気持ちを受け取ることができなかった。
なぜなら、今の私は本当の私ではないからだ。
私は、数年前、別の街での大火事に巻き込まれた。
その時、幼なじみと一緒だった。
私たちは火事の現場から逃れようとした。
だけど、建物の崩落に巻き込まれ、二人揃って下敷きになった。
意識を失ったまま生き埋めになっていたようだ。
数日後、私たちは救助された。
目を覚ました時、幼なじみが死んだと救護隊に知らされた。
ところが、幼なじみの亡骸を確認すると、そこには私の身体が安置されていた。
私は幼なじみの身体になっており、彼女の身体で生きながらえていたのだ。
私も幼なじみの孤児院育ちで、家族がいない天涯孤独の身だったので、私が入れ替わっていることに気づく人は誰一人としていなかった。
それから現在に至るまで私は幼なじみの名前で、身体で、幼なじみとして生きている。
私がパン屋で働いているのは、幼なじみがパン屋で働くことが夢だったからだ。
私には特別な夢があったわけではなかったので、別に構わなかった。
あの火事から生き残って以来、私は私の人生を生きようとは思わなかった。
私はもう人生を楽しんではいけないと決めていた。
彼は告白を断られたことなんて気にせず、毎日クロワッサンを買いに来る。
買いに来ては、私のことを諦めてないと言っていた。
嬉しいが半分、困ったが半分といった気分に私はなる。
私はどうしたらいいかわからなくなっていた。
そうだ、諦めの悪い彼に真実を伝えればいいかもしれない。
そう思い立った私は、仕事が終わったあとに話がしたいと彼に伝えた。
約束の時間に彼はちゃんと来てくれた。
何の話だろうと彼は思っているだろう。
「変な話かもしれないけれど、聞いて欲しい」
そう言って私は話を始めた。
孤児だったこと。
数年前の火事のこと。
幼なじみのこと。
私の身体が死んだこと。
幼なじみの身体で生きていること。
幼なじみとして生きていること。
今までの生い立ちをすべて丁寧に話した。
彼は黙ったまま、目をそらさずに私に話を聞いてくれた。
私が話し終わったあとも、彼は黙り込んだままだった。
こんな非現実的な話をすれば、私を変な女だと思ってくれるだろう。
そうすれば、私のことを諦めてくれる違いない。
そうに決まっている。
ところが、彼から返ってきた言葉は予想外なものだった。
「なら、僕と一緒だ。僕も同じ境遇なんだ」
さすがの私もその言葉には驚いた。
彼が言うには、昔、親友と一緒に事故に巻き込まれたそうだ。
その際に親友の身体と入れ替わり、自分の身体と親友が死に、彼は親友の身体として意識を取り戻したそうだ。
「僕も、こんなあり得ない話をしても信じてもらえないと思った。だから、誰にも告げずに生きてきた。幸か不幸か、僕たち二人も天涯孤独だったから、不審に思う人はほとんどいなかったよ」
私とまったく同じ境遇にいたと彼は淡々と話してくれた。
事故に遭って以来、初めて私は一人ではないんだと感じた。
違う世界に取り残されたのは私一人だけではないことに、心の底から安堵した。
彼も同じ境遇だった。
それがどれだけ私にとって幸福なことか。
頬を流れるものを私は止められなかった。
彼が驚いている。
だけど、私はなんでもないと言いながらも、止めることができなかった。
彼は私が落ち着くまでずっと待ってくれた。
彼になら心を開けるかもしれない。
私は彼に先日の告白の返事について謝り、改めて一緒にいたいと告げた。
彼は快く応じてくれた。
私は、彼であって彼ではない彼を愛している。
彼は、私であって私ではない私を愛してくれている。
でも、そこに共通するのは、心に惹かれたということだけ。
大切に想う人に何が起きても今まで通り、その人を大切に想えるかどうか。
それがとても大切なことだと思う。
私は人生をもって、知ったような気がした。
私は私でなくなったことに苦しんで、自分を責めるように生きてきた。
だけど、罪悪感を覚える必要はもうない。
私は自由なのだと思えるようになった。
もう心を閉ざす必要などどこにもない。
今、私はとても幸せだ。
了
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