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ブログを書けなくなっても全然気にしなくていい理由

近頃、タイムラインに「ブログを書けなくなった」という意見をちらほら見かける。

そして多くの人は、この「ブログを書けない」という事態をネガティブなものとして捉え、何とか脱そうとして、そして上手くいかない。そのことで余計にネガティブになってたりする…のかもしれない。

が、俺の考えを言えば、この「ブログを書けなくなる」という事態は、全然気にする必要はないし、ましてやネガティブに捉えたりするようなことでもない。

なぜ、そう言えるか?

それは、ブロガーというのは、人間のある種の状態を示すものではないか…と最近考えているからです。今回はこれについて。


ブロガーとは人間の一つの状態である

「作家と言うのは、職業ではなく、人間の状態ではないか」みたいな話を聞いたことがある。確かある作家が別の先輩作家から受けた言葉だったと思う。

これはつまりどういうことか?

自分なりに解釈すると、つまり作家というのは、ラーメン屋の暖簾みたいに掲げたり降ろしたり、あるいは電気のスイッチみたいにオンオフで切り替えたりするものではない…ってことじゃないか。

大抵の人はその職業になるとき、入社試験とか国家資格をパスするとかして、ある日から突然その職業になる。

けれど作家とはそういうもんじゃなくて、人が日々変化していくなかで、なんかいつの間にかそういう感じになっている。パッと作家に変身するのでなく、日々生きている内に「作家という状態」に成っていく…そういうことを言ってんじゃないかと思っています。

ブロガーも、そういうもんじゃないかと考えている。

あらゆる事物は、変化の途中にある。

自分が最近読んで「面白い!」と思った本に、千葉雅也さんの『現代思想入門』がある。そこから引用する。

ドゥルーズによれば、あらゆる事物は、異なる状態に「なる」途中である。

『現代思想入門』千葉雅也 / 講談社

本によると、ドゥルーズ(界隈では超有名な哲学者)は、あらゆるものを変化の途中にあると考えたらしい。よれば、ピラミッドすらも途中であって、出来事であるという。それは固定されたものではないのだ。

どういうことか?

蠢く関係の上に成り立つ、私とその状態

当たり前だが、私たちを囲む関係は常に日々変化し、蠢いている。

ここでいう関係とは、国家情勢とか経済とか、もっとパーソナルな人間関係とか、あるいは体調が悪いとかエアコンが壊れたとか滑って転んだとか、そういうもの全部を含めています。

私たちはそういう、蠢きまくっている関係の上で「社会人」とか「学生」とか「親」とか「あいつの友達」とか、そういう状態を保っている。

例えばある「学生」という状態を保っている人がいるとする。その人は一見すると何の変哲もない「学生」かもしれない。でも実際は、その「学生」の下で、色んなものが蠢いているはずだ。友達や親との関係とか、アルバイトとか、将来の夢とか。

そしてこの関係は常に変化する。ある日突然、親が病気になるかもしれない。友達と大喧嘩するかもしれない。世界一周の旅に出たくなるかもしれない。そうして関係が変化すれば、その人は「学生」という状態を保てなくなる可能性は大いにある。

誰もが、このような蠢く関係の中で状態を保っているに過ぎない…という見方ができる。つまりその意味で、私たちは常に変化の途中にあると言える。

「社会人」や「ピラミッド」という状態

そういう俺も「社会人」という状態を10年ちょっと保っているけれど、これだっていつ変化するか分かったもんじゃない。

幸い親は健康、趣味は一人でやるものばかりだからか人間関係で悩むことも少ないため、これまで「社会人」という状態を保ってこれた。でもこれが定年退職まで全く変化しないなんてことは、まぁ普通に考えて有り得ない。

体は弱くはないけど強くもないし、そのうえ今の仕事がたいして好きなわけでもないので、ぶっちゃけいつ「社会人」を保てなくなっても、俺としては不思議でも何でもない。

ただ給料は欲しいし、今の職場は仕事内容はともかく、待遇に不満はない。そういう種々の関係が、俺に「社会人」を保たせているだけって話。そしてこの関係は、今この瞬間も蠢いている。

これは「ピラミッド」も同じだ。「ピラミッド」はめっちゃ昔にできた建造物で、長い間あのエジプトの砂漠の中にあるけど、だからって固定されていて未来永劫変化しない…なんてことはありえない。「ピラミッド」すらも蠢く関係の上に成り立つ状態でしかないのだ。その関係とは、地球温暖化、あるいは天災、隕石とか、人為的な破壊とか。今はあの石が積み上がった状態を保てているけれど、この関係が揺らげば「ピラミッド」だってブッ壊れる。ノートルダム大聖堂や首里城が燃えたように。

「ブロガー」も同じである…というわけです。


今は「ブロガー」という状態でないだけ…と考える

電化製品が壊れた時の決まり文句に「昨日までは普通に動いていたのに!」ってのがある。

冷蔵庫もエアコンも電子レンジも、昨日までは普通に動いていたのに、朝起きたらブッ壊れてうんともすんとも言わなくなったりする。そういうもんです。

しかしそれは、突然のことなんだろうか?
その電化製品は、ゆっくりと「正常」から「故障」へと、状態を変化させていたのではないか?
というか、作られた時点で既に「故障」へと変化し始めているけれど、それを私たちは知覚できないだけではないのか?

ある人は突然ブログを書けなくなる。あるブログはぱったりと更新が止まる。あるフォロワーさんが急にツイートしなくなる。

でもそれは突然のことか?
その人もやっぱり蠢く関係の中で状態を常に変化させていて、ならば私が見ていたのは、その変化のプロセスの中のある一面だった…という話なんじゃないのかと思う。

蠢く関係が、いつかまたアナタを「ブロガー」にするときまで

もしかしたらアナタは今、ブログを書けなくなっている人なのかもしれない。でもそれは気にすることじゃない。

あなたは蠢く関係の中で、今は「ブロガー」という状態じゃなくなっているだけだからだ。

そして関係は今も蠢めいている。蠢きingなのだ。だからいつかまた「ブロガー」という状態に戻る日も来るだろう。その時、また書けばいいのだ。

「書きてぇ!」と思えるネタが降ってくるかもしれない。あるすんげー文筆家に感化されてまたやる気になるかもしれない。その他にも、色んな関係があるから、そういうもんがアナタを今も変化させている。

今ブログをガンガン書いているアイツだって、そういう変化に晒されて、いつかピタッと筆を置くかもしれんのだ。

因みに俺は普段は別の個人ブログで色々書いていて、noteの更新は久しぶり。なんで今回はnote?って聞かれても、それはそういう状態に今はなっているから…としか言いようがないのです。


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