龍守逢の休日
日曜日午前9時
ガチャ
蠟梅学園中等部学生寮、満月寮の
ドアが開く
Tシャツとショートパンツ
なるべくラフな格好で
参考書と問題集がいっぱいに入ったトートバッグからは筆箱の苦しげな跡がはっきりと見える
高い位置でまとめた髪は文字通りポニーテールのように左右に揺れる
大股で木陰を歩くのは
龍守逢
図書館へ向かう満月寮からの短い道のり
いつもと違う服を着て学校へ行くことが面白い
いまでも少し緊張する
明日さんはいつもこんな感じなのかな
図書館へ直接行ける入り口の前には幅の広い石階段がある
身長の低い私は一段に2歩かかる
ふんっふんっ
入り口のドアは大きくて重い
たぶん図書館内の気密が高いせいもあるのかな
全身の体重を乗せて押し開ける
おはようございます
受付だけに聞こえるような挨拶
おはよう
とても優しく穏やかなトーンの挨拶が返ってくる
司書の洋子さん
レモネードの本を読んでいる
洋子さんが出してくれる飲み物はどれも美味しいらしい
浅葱会長の話
浅葱会長に蠟梅の人について尋ねると必ず一つエピソードを話してくれる
会長だからなのか
あの人だからなのか
今の私にはまだわからない
カウンターの奥から甘い香り…
私もいつか出してもらえるのかな
日曜の朝に図書館に籠る一年生なんてほとんどいない
ちょっと優越感
全部独り占め
今日は数学を進める
昨夜わからない問題にぶつかった
解けるまでいつまでもモヤモヤする
はやく倒さなきゃ!
入り口からは見えない奥まった特等席に向かう途中
6人がけのテーブル席に見慣れない生徒が読書に没頭していた
谷川景
寮生じゃないのに
日曜日わざわざ蠟梅の図書館に来るなんて…
いつもと変わらない制服姿
何読んでるんだろう
私には全く気づいてない
なんなんだろう…
このムクムクを湧き上がる対抗心は…
小学生の頃
模試の通知書で何度彼女の名前を見たかわからない
毎日顔を合わせる学校の誰よりも強く強く印象に残っている名前
上に誰もいない
何度も1番の冠を携えた名前
あまりに肥大化した「谷川景」のイメージ
男か女ともいえない中性的な名前
どこから情報を得てきたのかわからないが透子から蠟梅学園志望だと知らされた
そのとき同性だと知った
迷わず私の進路も蠟梅学園に決まった
私の動機そのものと言っていい実物「谷川景」…
今…その谷川景のつむじを眺めている
穏やかな朝はもう終わった
私は谷川景から一つ席を挟んだ椅子を引き
同じテーブルで勉強を開始した
「本棚の歴史」
谷川景が読んでいる本の表紙に書かれた文字
谷川景はどんなジャンルが強いのか…
どんなジャンルが弱点なのか…
ずっと興味があった
だって模試ではほぼ全部満点だったから
……よし
とりあえず勉強してるわけじゃない
ページのめくるスピードは決して早くもない
差を縮めてやるんだから!
…
…
…
1時間ほど経っただろうか
パタ…
隣で本を閉じる音
反射的に顔をあげそうになったが
必死に堪えて不等式の問題と向き合う
集中しなさい龍守逢…
龍守逢は心の目は全力で隣の席に向いていた
はぁ…
本を閉じた瞬間
耳鳴りが聞こえる
本から解放された時
現実の方が異世界に感じるこの瞬間が好き
冊子から入る淡い光ですら少し眩しい
机に映る窓の光がきれい
いつもは目に入らないのに…
本を読み終わったこの瞬間だけは
色んな感覚が敏感になるのはなんなんだろう
この感覚を忘れまいとゆっくり辺りを見回すと…
…
…
龍守さん…
谷川景は心の声を抑える
集中している
朝からこんな問題集に集中できるなんてすごい向上心、でも…そんなに顔をノートに近づけてると目にも首にも負担がかかるような…
やめよう
龍守さんの丸まった背中からは蒼い炎がみえる
邪魔をするなという強い意志の炎
熱き同級生から目線を外しあたりを見渡す
ほとんど空いてる
龍守さんはどうしてこの席に座ったのだろう
…もしかして私を見かけて、何か用があるのを思い出したのか
…そうか
龍守さんももしかして本を読んでいる私に気を遣ったのかもしれない
だとしたら…帰るわけにもいかない
うん…付き合おう
目を閉じて一呼吸置いた瞬き
学年二位
休みの日でも勉学に励む秀才
そんなやる気に満ち溢れた
同級生の子と一緒に勉強…
思い返すと
誰かと一緒に勉強するなんて
はじめてかもしれない
ふふ
一緒に…だなんて…
たまたま隣だっただけなのに
私にも熱い火がうつったかな
筆記用具、そして問題集とノートを机にそっと置く
大問1を一読
よどみない一定の速度でペンが走る
…
…
は!!
龍守逢は顔を上げる
ようやく解けた…
頭の中の泥が溶け出すのがわかる
ただ腕時計を見て白目を剥く
…試験終わってるわ
髪を引っ詰めた頭を何度か撫でる
同時にため息
…でもやり方は掴めた
あとは類題を解いていけば
速度も上がる
苦手科目の数学に光明が差す
思わずギュッと握り拳
これで一歩谷川景に近づいた
気づかれないよう顔はそのままに
チラリと横目で谷川景を覗き込む
数学の問題集を解いている
しかも私と同じところ…
何度も向き合ってきたからノートに描かれた図を見てすぐわかる
応用だ
応用問題を解いている
しかもものすごいスピードで…
決して指の動きが速いわけではない
そうではなくて思考、記述、計算
そのテンポがこ気味良い
ノートを半分に折った片方に試行錯誤のアプローチが見える
思いつきもしなかった手法がいくつも試されている…
無意識に声が漏れた
「すご」
谷川景の手が止まる
ノートから解放された谷川景の顔がこちらを向く
「あ」
手を止めてしまった…
申し訳なさが混じる龍守逢の声
気にする風でもなく谷川景
「龍守さん おはよう」
気を取り直す龍守
「おはよう ごめん …邪魔した」
谷川景は小首をかしげる
「全然」
「龍守さん朝早いね 休みはいつも図書館に?」
至ってニュートラルな表情で質問する谷川景
「ううん、部活のない日だけ」
「谷川さんはどうしてわざわざ休日に
学校の図書館まで?」
「図書館の本最初から全部読もうかと思って」
は?
変わらない表情で耳を疑う答えが返ってきた
龍守逢は唖然とする
あたりの本棚を流し見てあきれる
どれだけの本があると思う?
「…それで本棚の歴史?」
「?…ああ」
谷川景は「本棚の歴史」を手に取り背表紙に貼られた分類が記されたラベルを見る
「龍守さん 図書館でいうところのはじめの本てなんだと思う?」
「え?…うーん」
「文学、自然科学、いろいろあるけど分類の樹形図の根っこ、一番初めに「総記」っていう分類がある」
「…へぇ」
谷川景は
ラベルを指差し龍守に見せる
「「0」って印字されてるでしょ?
これが「総記」を表してる
今15冊目」
唐突な図書館豆知識に面食らうが
龍守は質問で返す
「15…これ…卒業までに読み切れる?」
「さあ」
さらっととぼけた答えを返す谷川景は笑顔だった
「絶対終わらなそうなことの方が面白い」
薄く笑う谷川景が楽しそうに答える
…
…
龍守逢は言葉を失った
だって…
私とは全く正反対だから
「私は辿り着ける目標があって…目標を達成するのが…面白い」
谷川景は
そっか!
と納得する
「だから龍守さんは必死なんだね」
「え?」
「達成できてない問題があるから不安なんでしょ?」
「…うん」
確信をつかれたような妙な感覚
私はわからない問題があるとなんだか嬉しくなる
考えることが一つ増えた!…そう思えて
あ
私も…谷川景のことがわかった気がする
いつも余裕そうにして何も苦しまず満点をとって…天才ってそうなのかって
そうじゃなくて
わからないこと…
できないことが楽しいんだ
ふふ
そんな私は今ちょっと嬉しい
ただただ謎めいた谷川景のことが
少し理解できたことが嬉しい…
つくづく自分の性格を再認識した
「谷川さん…勉強まだしていくの?」
「そうだね 龍守さんが終わるまでやっていこうかな」
にこりと微笑む谷川景
「ま、負けないから」
あはは
何に?と朗らかに笑い問題に向かう谷川景はとてつもなく強そうに見えて…
…龍守逢はまたひとり
戦いの火が燃え盛る
図書館の外からすずめが鳴く声…
龍守逢にはもちろん届いていない
そんな熱い熱い日曜の朝