差別をなくそうという風潮は間違っている
中国系日本人であり、差別を経験してきた私ですが、最近の社会の「差別をなくそう!」という風潮に違和感を感じます。
違和感を感じること
➀差別=「ある決まっている行為」といったように差別を定義しようとする
➁差別をすることは人間としてあり得ないといった風潮によって、多くの人は自分が差別をしたことがないと思っている
➂「差別をなくそう!」とだけ言っている。
違和感➀差別を定義すること
ネットのコメントを見ると、「これは差別ではない」とか「これが差別と捉えられるなら何が差別として捉えられないのか」といった声を聞きます。人は、差別かどうかの線引きを求めています。
ここで差別の定義を見てみましょう。(https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/1418/00121109/02_kyozai_9_ronbun.pdfより抜粋)
上記の定義を見ても、その時々の人間の判断に大きく委ねられるすごく曖昧なものであると思います。
ゆえに、差別の定義はそこにいる社会集団の特性によって変わるので一概に差別を定義することはできないと感じます。
差別とは根本をたどれば、「嫌なことを言ってほしくない」or「嫌なことをやってほしくない」といった感情を持っているが、相手は無意識的にそれを行っている状態のことです。
なので、差別を解決していくためには対話して、その場その場で処理していくことが必要だと思います。
違和感➁差別=絶対悪、そして差別なんてしたことがないという人がいる
社会の「差別=絶対悪」という風潮は圧倒的に間違っていると思います。その風潮故に、差別はいけないこと、自分みたいな人がやっているはずがないと考えてしまいます。ただ、差別の多くは無意識です。それ故、私も含めて差別をしてしまう時は昔もあったし、今後もあるでしょう。
大事なのは「人間は差別をしうる生物である」といったことを理解して、自分が相手を傷つけた時に対話して反省することではないでしょうか。
違和感➂「差別をなくそう!」とだけ言っている
上記に示したように、差別の大半は無意識です。差別をなくそう!と言っても意味はありません。差別がどうして起こるか構造を理解しなければいけません。
皆さんが少なからず関わってきたいじめと似た観点もあります。たとえば、いじめの原因の一つは「自分と違う相手を貶めることで自分の優位性を保つ」ことだと私は考えます。
いじめが私たちの他人より優位に立ちたいという本能的欲求によったものであるから故、いじめは社会人になっても発生します。
つまり、いじめと差別、どちらも対処するには「やめよう」というだけでなく、人間はそれらをしうることとそれが起こった時に、どう対処するかが大切です。
どういう風潮を築くべきか
差別はみんながやりうることである。
差別をしてしまった後に、諦めずに対話をすること。
やっていきたいこと
みなさん、マイケルサンデルの白熱教室はご存知でしょうか?私はそれを自分でやりたいです。白熱教室は議論をさせるが、それに答えを出さないことです。参加者が思い思いの意見を言うが、それに対して評価しない。意見をぶつけ合わせることで、お互いの立場を理解させて、結論を決める事より理解しあうことや今自分が抱いている常識を疑うことに目覚める事を目的としています。
友人間でやってみたい!!
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