私のマゾ性について
今回は、switcherである私の「マゾ」の部分を解剖していこうと思う。
私は今でこそ、switcherと名乗っているけれど、もともとマゾの気はなかったと思う。むしろ、Sっ気というか、本当に2.3歳のころから、コップで父の頭を殴って、痛がっている所を見てケラケラ笑っていたような子どもだったらしい。これについてはちゃんと叱られたらしいので、ご安心を。
そんな私がマゾに目覚めた理由(憶測)はなんだろうか。何回か考えたのだけれど、一つ、思い浮かぶものがある。
それは、
「嫌なことがあった時にオナニーをして、全て忘れようとしたこと。」
そう、やけ酒ならぬ、やけオナニー。
私の人生を振り返るとおそらく、S側?の目覚めはとても早く、2.3歳ころ(コップ期)からとは言わないけれど、私は小学校に通い始めたくらいで、いじめを題材にしたものをコソコソ見ていたような気もするし、以前どこかで書いた耳鼻科で無理やり鼻に管を通される男の子をみて良くない気持ちになっていたから、生まれつきのものなのかもしれない。
しかし、この頃の私はあり得ないほどに正義感が強かった。
いじめや無理やり何かをするという行為に対して、強い嫌悪感があったと思う。しかし、私は昔から好奇心の塊のような人間をしている。
怖いもの見たさか、自分に対しての正義の押し付け(道徳に反していることに興味を持つような悪い自分を正すため)か、正義とは何かを考えるようなものを目にする機会が多かったようにも思える。
そうして少し生きて、好奇心でインターネットの海に繰り出した。
さあ、すると大変。
自分が興味のある物がすべて検索すると出てきてしまう。
そうして、私が人生で初めて目にしたエッチなものは、官能小説だった。(画像は読み込みが遅かったからかもしれない。)
それも身体検査、体罰、いじめとかのジャンルだったような気がする。(ちなみに身体検査は、羞恥メインでした。)
今考えると、どっちの立場で興奮してたか分からないけれど、この頃はたぶんS側しか刺激されていないので、自分が辱める側で考えていたと思う。
これが小学校3.4年のお話だと思う。
国語や、現代文だけは昔から周りに褒められて育ってきたのだけれど、官能小説のおかげかもしれないと思うくらいには、いじめや体罰、身体検査とかは読み漁っていた気がする。ありがとう、官能小説。
そして、エロの世界に足を踏み入れた、わたし。
保健体育を鼻で笑って、大人のフリをする。
この後も順調にエロ(ノーマルではないもの)について興味を持つのだけれど、順調なのはエロだけに。
小学校高学年から中学校前半にかけて、なかなか学校も家族のことも上手くいかない時期が始まる。本当に今思い返しても、ほぼ良いことがなかった気がする。色々なことを考え始めたのもこのあたり。
きっと、モラトリアムだったのだろう。
今思うと、全ての事柄があっての私だから、あんな時期なくて良かったとは思わないけれど、もう一回その時期を体験したいか。と言われると全く体験したくない。楽しいことばかりで生きていられるならそれが一番良い。
こんな時に唯一の癒しがオナニーだった。
「気持ちがいい」しか考える必要がないというのは、その時期の私にとって、救いだった。自分のことについて考え始めても、迷路に迷いこむだけだし、対人関係について考えても、自分一人ではどうしようもない。
そんな苦痛を見て見ぬふりをして、平坦な快楽で上書きする。
これが上手くいけばよかったのだけれど、おかずも悪ければ、ストレスを快楽でかき消そうとしている時点で間違っていた。
この時点ではもうSMの世界も大体把握していたから、マゾという便利な生き物がこの世にはいるんだ。と不思議に思っていた。原理を知りたかったし、あわよくば、マゾになれたら良いのにと思っていた。そうしたら、全てが楽しいのではないかと、考えていた。
まさか、本当にそうなるとも知らずに。
基本的にオナニーをするときは、何も考えたくない時だったのだけれど、何も考えられない時だとは限らない。
頭は嫌という程回っているのに、快楽によって嫌なことをなかったことにしようとすると、
考えたくないことを考えながら、
快楽を身体では受け取る
ことになる。
すなわち、
一人で、条件付けを行っていたのではないだろうか。
餌を見ると、よだれが出る犬のように
嫌なことを考えると、気持ちよくなるようになってしまったのではないか。
さらに、見ているものは、基本的に上下関係のあるもので、それすらも嫌なものだとしたら…。
何をしているんだと思うかもしれないけれど、ひどい扱いを受けて興奮するマゾを軽蔑すると同時に、羨ましいとも思っていたから、願ったり叶ったりなのかもしれない。
このことが本当に、マゾの部分のきっかけだとしたら、本当に嫌なことをされて興奮する意味も分かる様な気がする。
自分のM側の部分はあまり嫌いではないのは、なりたくてなったからかもしれないと思ったり。
あと、前に自分を飼っているし、自分に飼われている感覚があるというツイートをしたことがあるのだけれど、それについても納得がいくし、ストレスがたまった時にマゾになりやすいのも説明がつくような気がする。
もし、私のように精神的苦痛で興奮するようなマゾになりたい人間は、試してみる価値はあるのかもしれない。しかし、肉体的な苦痛も少しだけ好きだったりするので、そもそもマゾの気があったことは否定できない。