若かりし頃の、私の「pride」。
平成になってしばらくたって、私は24歳の時にこちらに嫁いできた。
それまで農家に縁はなかった。
生まれ育ったところは大阪の閑静な新興住宅地で、農家とは遠いところにあった。
母方の祖母の家では、今も田んぼをしていていて、毎年、米を頂いていたが、田んぼで遊んだこともなかった。
だから、全くの想像だけで農家に嫁いできた。
嫁いできてすぐに始まった仕事。
まだ慣れていなくて、要領が悪かったのだろうか。
面積は周囲の農家に比べれば広いといえども、今こうして休める日があるということは、普通に考えれば、休めるはずなのに、それまで主人や義母がやってきたように、休まず仕事をした。
昔は、随分雨に濡れながら仕事をした。
息抜きできるのは、子供が産まれるまで、年に一度連れ出してくれた旅行。
仕事の合間に行く、週に一回の食料品の買い出し。
毎朝、仕事前に車で数分の、一番近くの自動販売機でコーヒーを買うのが唯一の贅沢で楽しみだった。
初めて体験する柿の収穫期は、大変だった。
夕方まで収穫し、取り込んだ柿を、選果し、箱詰めし、夜トラックで大阪の市場まで運びに行って、日にちをまたぐ頃に帰ってきた。
それでも、忙しいなか、トラックの助手席に乗って、大阪の市場へ行くことだけが唯一の息抜きで、幸せに感じるくらいに酔っていた。
私たちは、仕事で疲れていたはずなのに、まだ若かったからだろうか。
疲れを感じさせないくらい、トラックでたわいもない話しをしながら、市場へと向かった。
市場の帰りは、よくコンビニへ立ち寄った。
その頃、ラジオからよく、今井美樹さんの「pride」が流れていた。
私は今 南の一つ星を 見上げて誓った
どんな時も 微笑みを絶やさずに 歩いて行こうと
歌詞の出だしの「南の一つ星」は、市場へ出発するのが星の出る頃だったので、感情移入しやすかった。
帰りの軽トラの窓から星を見上げながら、この歌を聴いたことも何度かある。
それに当時は、どんな大変なことがあっても、やっていこうと農家に嫁いできた心意気があったので、私の想いを反映しているかに感じた。
初めて経験する農繁期に漠然と「大変だな」と感じたものの、当時は勢いそのまま結婚して間がなかったので、どんなことでも乗り越えられるという思いひとつだった。
だけど今は 貴方への愛こそが 私のプライド
この歌詞は、その心情を反映してくれているかのように感じた。
貴方は私に 自由と孤独を 教えてくれた人
この歌詞が胸にささったのは、結婚した当時は不安はなかったけど、リアルに日常がはじまって、自分では気づかない「漠然とした不安」がどこかにあったのだろう。
見上げてみて 南の一つの星を 素敵な空でしょう
私は今 貴方への愛だけに 笑って 泣いてる
わたしの「漠然とした不安」を、主人は何も感じていないのは、よく分かっていた。
主人にとっては、ここでの生活が「普通」で「日常」なのだから。
何も言わずに耐えるのが「愛」だと思っていたあの頃。
歌を聴くたびに、「どんなことがあっても乗り越えよう」と自分で決めたという「pride」を、突き通そうという思いを新たにした。
その思いに暗雲が立ち込めたのは、気力がもたなくなったのか、最初からそのような心意気なんてなかったのか、それとも妊娠して心身の状態が変わったのか、結婚3年目くらいだった。
最後に市場へ行ったのは、息子を出産する前の秋だった。
その頃から、少しずつ「思いは言わないと伝わらない」と察した私が愚痴や不平不満をこぼすようになった。
だから、最後の秋は、トラックの中で喧嘩をしたこともあった。
だけど、軟化の柿がでて、嵐の中、神戸まで高速を走らせたときには、軽トラが大きく揺れるなか、「すごいね」と二人ケラケラ笑いながら市場へ行ったことは、今でも懐かしい思い出として話すこともあるし、あのときは、若くて色んな意味で思いも一途だった。
少女マンガ風にいうと、黒目に星がキラキラと光っていたのかもしれない。
それくらい、濁りがなくて、純情だった。(たぶん・・)
だから、秋になると思い出す。
「pride」の歌と、あの時は若かったなぁ・・・と。
その後、二級品だけでなく全部の柿を市場へ出荷することになって、数量も増えたので、柿は運送屋へ運んでもらうことになった。
今、この年代で同じように、仕事をした後で、市場へ運ぶとなったら、身体が老いている分、若いころと同じような一途な思いで運べないだろうけど、こうして今でも私の「pride」を突き通せているから、自分を褒めてあげてもいいのかしら。
まだまだ志半ばだけど。
ちなみに当時の主人は、お見合いだったからかなぁ。
農業をやってくれて、義両親と同居をしてくれる人なら、誰でもよかったんじゃないかと疑惑が湧くくらい、私への思いは感じなかった。
そういうことに関して、不器用なこともあるのだろうけど、主人もまた若くて必死でそれどころではなかった。
あれから、二十年ほど。
紆余曲折の夫婦生活を乗り越えたおかげもあって、その主人も、今となっては、柿畑で剪定する私を軽トラで迎えに来てくれる時には、「ア・イ・シ・テ・ル」のサインの代わりに、軽トラのクラクションを5回鳴らしてくれる。
いや、それはウソ(クラクションを鳴らすのはホント)。それはない。
「ハ・ヨ・コ・イ・よ」が関の山だろう。
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