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さいごまで、義父母と完全同居をやりきったご褒美は。

義母が亡くなってから、やるせない思いがつづく。

88歳まで生きてくれ、十分頑張ってくれたと割り切っているつもりなのに。

もともとは、お互い天敵であり、気が合わない存在だったし、大っ嫌いだった。

どこか、気の合わない実母と似ていた。

若い頃は、何度、義母に泣かされたか分からない。

私が踏ん張って、強くなってから、少しは大人しくなったが、それでも好きになれなかった。

私がやること全てを否定したし、逆のことをして回った。


あんなに大変だったのに。

あんなに義母のことが、嫌いだったのに。


今ではあの時が恋しい。


そう思えるのは、最後は雪解けの時間があって、義父が病院へ入院する前、義母が施設へ入所する前に、お互い感謝の気持ちを伝え合うことができたからかもしれない。

義父は昨年の3月、義母は数日前に亡くなったが、葬儀を行うにあたって、メモリアル写真を選ばなければならない。

いままで見たことのない写真も出てくるし、今までにない思いがこみ上げることもある。


今回、私の胸を打った写真は、「思い出」と書かれた封筒に入っていた、数々の古い写真だ。

セーラー服の義母が、友人たちと写っている写真。

生まれたばかりの義姉を抱いた義母の横で、義兄が居る写真。

嫁いできた当時に、義父の祖母(姑に当たるひとは居なかった)と写っている写真。

背景の庭にも歴史ありだ。

もともと近所の人の柿畑だった場所とは聞いていたが、背景には柿の木が写っている。

そんな中、息を吞み込んだのは、「洗濯のたらい」を目の前に、義父の祖母と写った写真だ。

裏面には、「洗濯の後のひととき」と書かれている。

時代からすると、どこの家もそうだっただろう。

洗濯機がない時代。

当時の女性は、皆そうやって「たらい」で洗濯をしていたのだろう。

しかし、当時義母は、19歳か20歳。

家事をするにも、仕事をするにも、機械化が進んでいない時代。

昔は、草刈り機で草を刈ってばかりだったというが、力仕事が多かったと聞く。

山を自力で切り拓いて畑にしたことも、聞いた。

「若い頃はずいぶん働いた」と言っていたように、大方、義父の居ない畑で、ひたすら農作業を進めていたのだろう。

力仕事が多かっただけに、疲労感も半端なかっただろうが、ガタイが大きくて健康体だったからこそ、義母に務まったことは想像できる。

だけど、年齢が若すぎる・・・。

破天荒な夫を支えるために、ひたすら農作業に励んだというが、幾度となしに里に帰りたいと思ったとも聞いた。

「里のお母さんに、早く迎えにきてほしい」と亡くなる前に言っていたと聞いたし、願いは叶わなかったけど、「さいごにもう一度、お姉さんに会いたい」とも言っていたとも聞いた。

6人兄弟のうちの、義母含む4人姉妹が、特に仲がよかったのは、傍で見ていても分かった。

きっと年に数回帰省する里には優しい母親が居て、仲の良い兄弟姉妹が居たとなると、その帰りたい気持ちも半端なかっただろう。


ともすると、義母の苦労が想像に堪えない、今まで以上の思いがした。


写真を見なければ、そこまで想像を馳せることもなかったかもしれない。


最後は神様は雪解けの時間を与えて下さり、義父が病院へ入院する前、義母が施設へ入所する前に、お互い感謝を伝え合うことができ、また一段と気持ちが変わっていった。

そのお陰もあって、より一層、その人の歴史を感じ、その人の苦労に思いを馳せることができる。

義父の時もおなじだった。


故人に想いを馳せながら写真を選べるのは、今まで一緒に生活を共にしてきたご褒美の時間だ。

生活を共にし、仕事を共にしてきたからこその、より一層強い思いというところもある。


義姉と二人きりになった、義母を看取る間のひと時に、義姉は初めて言ってくれた。

「同居って大変なんやろな。
うちの両親、どっちもやりにくいから大変やったやろ?
よう頑張ってくれたと思うわ。」

「めちゃくちゃ大変やったよ(笑)
でも、人生厚みができたし、それやからこそ、自分が変われたしよかったよ。
だけど、義姉さんが共感してくれたら、それほど嬉しい事ないわ。」

と返し、ふたりで笑った。

それも、私にとってはご褒美の時間だった。


葬儀は努めて自然に振る舞おうと思っていた。

だけど、義父の時には必要以上に泣いてしまって、ちょっと格好悪かったから、泣くなら少し控えめにとは思っていた。

涙がでなかったらでないで、それでもヨシと。


想像に反して、涙は出てきた。

共に生活をしてきた重みだろうか。

義父より接する時間が長かっただけに、嫁いできた当時からの思い出はたくさんある。

もちろん、良い思い出ばかりではない。

だけど、施設に入所する少し前に、私の手を取って言ってくれた記憶が鮮明に蘇る。

おまん、身体だけは、よう気を付けて頑張りよ。


施設に会いに行ったときにも、別れ際に、お互い手を取り合って会話を交わした。

よう、会いにきてくれたな。おおきによ。

義母さん、頑張ってよ!
私も、仕事がんばるからよ!


私がガッツポーズをみせて、返したのを覚えている。
義母は、笑顔で頷いてくれた。


なんで息子のオレの手を取らへんねん。

夫は少し拗ねていた。


一番思い出したのは元気だったころの義母だが、その頃は関係性が良くなかった。
それでも、その頃が懐かしく涙がでる。


棺に花を手向けるときには、涙で声が詰まらせながらも、最後に言葉をかけることができた。


義母さん、私の義母さんになってくれて、ありがとう。

長い事家のために、よう働いてくれて、おおきによ。
だいぶ、しんどかったなぁ。

わたしも、義母さんのように頑張るから、見ててよ。

自分でもびっくりしたくらいに、自然に出た言葉だ。


特に結婚してからは、実両親と全く疎遠だったからかもしれない。

生活を共にしてきたからかもしれない。

仕事を一緒にしてきたからかもしれない。
(同じ畑で仕事をしたのは、最初の10年だけだったけど)


全てのことがシンクロして出た言葉だったかもしれないが、それもまた、私にとってのご褒美のひと時だった。

「少なくとも義母が畑にでていた80歳までは、農作業を頑張ること」が、当面のわたしの目標になった。

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