ひびのなかで
書くほどでもないことをまとめて書いておこうという試み。
越後交通のバスは世界線を超えて
通勤バスは秋雨の中を走る。
気だるい顔で地蔵のように感情を無くしながら固まって過ごすのがここの掟らしい。
全員が生物であることを忘れ、じっとただ時が過ぎ去ることを待つ。
ところで俺の隣の席に誰も座らない率がエグい。
毎朝通勤の時間帯は混む。すると人は立つ。なぜ?俺の横は空いているというのに。他の二人がけ席は埋まっていくというのに!
俺は毎朝「なぜ?」と思いながら目を閉じただのオブジェクトとして過ごすが内心穏やかではない、
もちろん誰かが座らないように足を広げたりカバンを隣の席に守備表示として置いたりしていない。
むしろバンブルビーばりに体を折り畳み体積としてはスティック掃除機くらいになっているハズなのだが。
カバンをテディベアのように前に抱えながら孤独を知る。
臭すぎるのか?汚らわしいのか?それとも俺の生きてきた人生に根本的な要因が?
己の中にある罪を見直す時間と共にバスは揺れながら目的地へ向かう。
最終的に見つけた答えは恐らく俺の生きている世界線の上にもう一枚レイヤーがあってその世界線には俺の隣の席を取り合うOLや女子高生などがいるのだろう。
その"導き"を得た俺は微笑むことにした。
誰もいない俺の隣の席に向かって優しく笑いかけてみることにしたのだ。
クオーク
この世界は原子で構成されている。
僕も君も米も水もスマートフォンも全て。
そして原子をさらに分解すると原子核と電子になる。
そして原子核をまた分解すると陽子と中性子になる。
最後にその陽子と中性子を構成している粒、それがクオークと呼ばれるのだそうだ。
このクオークという最小の粒(素粒子)は何の個性も持たない。それぞれは何一つとして特有の性質というものが無い。
つまりは俺もキャメルメンソールライトも広瀬すずもアイムジャグラーEXの筐体も同じ粒で出来ている。
そして更にこのクオークは宇宙が出来た100億年以上前から21世紀の今まで宇宙全体に存在する数が変わっていないというのだ。
つまり今、俺の身体を構成しているクオークは何十億年も前に銀河系よりも彼方の名も知らぬ惑星で石ころとして存在したかもしれないクオークだということだ。
凄いことだぜこれは!と誰かに雄弁に語ったとしても「……で?それを知って君の手取りは増えた?」とか言われて俺は口を震わせながら「……髪切りてぇなぁ!」と話題をそらすことしか出来ないんだろう。
でも生きる上で自分の暮らしと関わりのない世界からの視点によって新たなる活路を見いだせることだってあるはずだ。
ゴンとキルアが贋作の手法からノブナガから逃げる道を見つけ出したように、俺を造るクオークが太古の昔ブラキオサウルスを造っていた可能性があるかもしれないという知識が俺の年収を数倍にしてくれることを願う。
スト2から学ぶデザイン
ふと聴いたプロゲーマー梅原大吾氏のインタビューで語っていた「なぜストリートファイター2の主人公はリュウなのか?」という内容から良い「デザイン」というものを考えさせられた。
超単純に梅原さんの言葉を要約すると「リュウを触っているだけで自然とスト2というゲームの楽しみ方を学ぶことができるから絶対にリュウが主人公」なのだという。
もう少し細かく説明すると、ユーザーが触れることの多い主人公がリュウであることで、相手との距離によって波動拳を打とう!昇竜拳を打とう!という「間合い」を考えて戦う楽しさがスト2の面白さだということが意識せずとも伝わるようになっているというのだ。
「伝えたい意図を説明せずに伝える」という離れ業はデザインが生み出す大きな力で、それはゲームでもチラシでもプロダクトでもウェブサイトでもきっとそうなんだろう。
自分のような口から泡をこぼさずに歯を磨けないタイプの猿のように勝手に「デザインとかセンスありきの無理ゲー」と決めつけている輩ではそれこそ気付けないレベルでデザイン界隈がこれまで積み上げた蓄積によるデザインの中で日々暮らしているのだと改めて思う。
ということは「デザイン」にはゴール、正解というものがあるように思えてくる。
自らの考えを世界に投げ掛ける「アート」と異なり、何かがデザインされるとき、そこには何かしら目的や意図が存在してそこに向かって「デザイン」というものは存在するんじゃないだろうか。
もっと言えばもはやある一定の蓄積を経たデザインにおいては、正解がすでにある程度共有されているようにも感じる。
ウェブ界隈で言えばすでに例えば「コーポレートサイト」のデザインにおける「正解例」は存在して、テンプレート化されつつあり、非デザイナーでも簡単にゴールに近づく事が出来るようになった。
つまり蓄積によってデザインのイデアを見つけることができるのではないか。
ならば何故デザインは常に移り変わっていくのだろうか。
そこにあるものは環境の変化と、常に正解を再定義、再構築し続けるデザイナーの探究心なのかもしれない。
コロナ禍によって様々な「飛沫を防ぐ」というゴール設定を再定義された製品を目にした。
ウェブ界隈もデバイスの変化でぐるんぐるんとデザインの当たり前も変化していった。
人々が求める本質的なニーズやゴールはあまり変化しないのかもしれない。
だがそこに向かう過程の中でデザインによって加えられた付加価値が大きな差別化を生み、様々な連鎖が起こっていることを再認識した憂鬱な日曜の夕方。
スト2の話どこいったんだマジ。