アイスランドから見る風景: コラムを始めるにあたって
いつだったか、すでに数年前のことだと思う。写真家、もしくはドキュメンタリー映画監督が、皇帝ペンギンの生きざまは凄まじい、繁殖生態の一部でも変えることができたら、どんなにか楽に生きられるだろうに、とコメントをした記事を読んだことがある。日頃から、動物に特別関心があったわけではない。それなのに、珍しく、その言葉がいつまでも頭に残った。”楽に生きられる”のに、それができないのが動物であるのに対し、それをしないのが人間だ、と思ったことも覚えている。
日本の大学を卒業した後、ドイツに渡り、その地で9年過ごした後、アイスランドへ移住した。アイスランドに移った後、2年近く、サンフランシスコのベイエリアで生活したこともある。ドイツにいたときは、学生、その後初めての社会人という、自分の面倒を見るだけの気軽な身分だった。しかしアイスランドとアメリカでは、すでに子連れになっていたため、それまでとは違った形で社会と深く関わるようになった。今では、日本で過ごした年数よりも、ヨーロッパにいる時間のほうが長くなってしまっている。
4つの国の文化や生活の違いを見ていると、どの社会にも光と影がある。それらは、その国の歴史や政治、地政学的な立場、国を構成する民族や人種などによって生みだされた彩りだ。善悪、好悪の問題ではない。それぞれの国民の道徳や価値観なども、育った国の背景とは切り離せない。先進国という枠組みで括れば、これらの国に生まれた人たちは、基本的な人権やある程度の生活レベル、または個人の自由が保障された社会で暮らしていることになる。恵まれている、と考えても間違いはないだろう。
しかし、どの社会でも”楽に生きられる”かというと、それはそうとも言い切れない。何をもって”楽”というのか、それ自体の定義もいろいろだ。便利性を追求しての”楽”がある一方、人それぞれがそのままの自分でいられる、という個人の独立性・独自性を念頭においての”楽”もある。同じ”楽に生きる”でも、このふたつはまったく異なる観念だ。
これまで会社のウエブサイトを通して、アイスランドのエッセイを書いてきた。それを、今回からコラムとして公のSNSに移したのは、わたしなりの考えがある。ひとつは、アイスランドだけについて書く、という枠組を外したかったこと、もうひとつは、定期的に書くことを習慣にしたいためだ。
自分の置かれた地理的な条件を活かし、違ったものの見方を文章を通して提案していく、というのは、以前のエッセイと重なりあう。ひとつだけの価値で人生を計るのはしんどくても、他に異なる考え方があるのを知ることで、少しだけ”楽に生きる”ことができるかもしれない、何か新しいこと、面白いこと、考えさせられることを伝えたい、と思う気持ちは昔と変わらない。
撮った写真にも、もっとメッセージを託したい。画像のもつ、率直なメッセージはとても大きい。わたしにとって、写真は、文章で書ききれない細部を、イメージで埋めてくれる貴重な媒体だ。機会があって、写真撮影に力を入れるようになってから、そのことを日々実感している。
さて、それでもすべての起点は、わたしがいるアイスランドだ。ここから、この国の周囲と遠く離れた日本を展望する。アイスランドは島国だから、どの国に話題が飛んでも、すべては大海原の彼方だ。この距離が、アイスランド人たちを他から切り離し、結束させ、生き残りを賭けた自立と共存の道を探らせてきた。価値観や人生観も、極に近い世界の最果ての国だからこその独特な色合いがある。
そんな国から、肩の力を抜いた、軽やかな、ある意味ではワガママな生き方とは何か、これから考えてみたいと思う。