アイスランドから見る風景:vol.14 男女平等の縦と横
先日、大変興味深い記事を読んだ。アイスランドでは、女性起業家が興した会社よりも男性起業家の会社のほうが、投資先に選ばれる割合が断然高いらしい。アイスランドの技術開発ファンドが投資先に選んだイノベーション会社26のうち、女性起業家の会社は1社のみ、男女混合は3社、男性起業家の会社は22社だった。これは出願者の30%が女性だったことを考えると、あまりに少ない割合ではないか、という疑問が提起された。
この状況について、女性起業家の一人が次のように考えを述べた。イノベーション分野に何人の女性起業家が参加しているか、また彼女たちが実際何パーセントの資本比率を保有しているかを考慮しないといけないにせよ、少なくとも現在の10倍は女性起業家に投資するべきであろう。例えば年金ファンドなどの大手は、投資先の何パーセントかを自動的に女性起業家に振り分けるようにしたらどうか。
これは、内側からの変革を待つよりは、外側からの枠組みを先に作って、それに合わせて女性起業家への投資を増やしていくと言う考え方だ。これを読んで、わたしは大学3年生の息子との会話を思い出した。
息子が不機嫌だったので、その理由を聞いてみると、アイスランド大手プラントエンジニアリングの会社の求人に応募した彼の友人ー機械工学部の修士課程にいる成績優秀な男の子ーが、同じ学部の学士課程の女の子に職を”奪われた”らしい。事実はともかく、友人の間では、政府が義務付けた男女平等の枠組みのせいで、彼が選考から漏れたと囁かれているようだった。性別は関係なく成績で選ぶべきだと、息子はひどく憤慨していた。よくよく聞いてみると夏休みのアルバイトの話だったので、正直拍子抜けしたが、子供たちにとっては真剣な話だ。わたしは母親として、それはそれはと息子を慰めた。
就労の男女平等、しかも男女同一賃金を目指すアイスランド政府が、国主導型の外からの枠づくりを先行するのは、自発的な内側からの改革を期待するだけでは何事も成就しないという経験からも、致し方ないことなのだと思う。就労の男女平等は一筋縄ではいかない。なぜなら是正されるべき男女差には2種類あるからだ。ひとつは、従事する職種、もう一つは組織の中のポジションだ。2021年9月にアイスランド政府首相直属の女性就労調査委員会の報告では、これを克服するべき横と縦の男女差と定義されている。
まずは、横を考えてみよう。これは職種による男女の就労の違いだと思っていただきたい。例えば医療や介護関係者、また教育関係者の80%近くは女性だ。80%にとどまっているのは、医療では医者や専門家、教育では高校、大学などの教員になると、男性の数が増えるからに過ぎない。現場で直接患者に接し、幼稚園や義務教育の子供たちの面倒を見ているのは、圧倒的に女性である。一方、技術・科学、建築分野においては、70%が男性の占める割合だ。この分野での女性の活躍は男性にかなり見劣りする。
次は縦の男女差だ。これは、組織内のポジションに占める男女比を指す。政府や地方自治体などの公務員に女性が占める割合は高いものの、それでも50%には満たず、これが私企業のマネージャーレベルのポジションになると女性の割合は25%にまで下がる。しかも、アイスランドの上場企業の社長に関して言えば、女性の数はゼロである。
女性の就労が世界で一番高い国と賞賛されていても、その内情を細かく見ていくと、まだまだ改善すべき問題が山積みされている。アイスランド政府は、まずこの2つの男女差を縮めることを目標に設定した。それによって、長期的には職種とポジションによる男女の賃金差も解消されるはずだからだ。
横の男女差について、もう少し考察してみよう。
男女の比率が大きく異なる職種には、その職務に対するイメージが社会に定着している。女性しか子供を産むことができないという、生物学上の事実もそれに大きく寄与したことだろう。しかしその後は、習慣や文化と言う側面が加わって、人為的な神話になったことも否めない。女性と母性は同義語ではなく、父性と母性が同義語であってはならない理由はない。特に今日のように、出産・育児の方法や環境を選べる先進国に至っては、親がどのように役割を分担しようと、それは当事者たちが決めるべきであって、国家や社会が個人に押し付けるイデオロギーではない。
職種に対する男女差をなくすには、教育が大きくものを言うように思う。自分の存在を性別ではなく、平等な権利を持つ”個”と定義することがその第一歩だ。男の子なら、女の子ならこうするべきだ、という無意識の社会の
強制や刷り込みを止めることで、新しい世代が目指す職業の枠も拡がる。
いずれ別のコラムでも触れていきたいと思うが、アイスランドでは政府と地方自治体が一緒になって、性・ジェンダー、障害または国籍に左右されない平等を教え、自己の身体性を肯定する教育を推し進めてきた。親と子の関係も自・他の区別が幼児期から明確で、14歳の堅信式を機に親は精神的に子離れを強いられ、16~18歳の間に法律的にも子供たちは社会と個別に契約をしていく。子供たちは、男の子、女の子である前に、生きる権利を有するひとりの人間なのである。
特に1990年以降に生まれた女の子たちには、その自覚が顕著だ。2010年以降、アイスランドの大学生の割合は男女比が40-60と逆転している。同時に、修士や博士号を取得した女性の数も男性より多くなった。この世代に大きな逆転が起こったのは偶然ではない。彼女たちは1975年からの男女賃金格差の解消に向けて戦い始めた世代の子供たちだ。男性と同じ賃金を得るために、母娘は学歴を上げることをまず目指した。しかも、この新しい世代はこれまで男性が多かった、科学・技術の分野にもしっかり食い込んでいる。例えば息子の所属する大学の機械工学部では、半数近くの学生が女性だ。
高等教育の現場が過去10年ほどそのような状況で、科学・技術分野を勉強する女性が増えているのであれば、女性起業家を応援し、投資を増やすのはまっとうな考え方だと思う。金融・銀行関係の縦の男女比も気になるところだ。特に投資決定ができるポジションの女性がどれだけいるのか、それを把握することも大切だろう。そう考えると、縦と横の男女平等がある程度実現するまでは、職種での女性と男性の割合、また組織内のポジションー特に私企業や上場企業のマネージャー、上級役員、社長などの決定権を持つ役職ーの外枠を作り、国が指導していくのは自明の理であるように思う。
そして、男女比が理想的なパーセンテージで落ち着いた後は枠組みを外して、本当に優秀な将来性のある起業家に男女の区分なく投資をしていくべきだ。差別が生じないように、性が分かるような事項をすべて取り払って審議にかけることもできるのではないか。国は国民の多くが住みやすい社会を作る手助けをしても、社会自体がその方向に動き始めたら、必要以上の介入はせずに親のように見守る役目に徹した方がよいと思う。
女性が生きやすい世界を実現するために、大きな意識改革が必要で、それに沿って法律も新しく制定していく必要はあるが、それは決して男性が生きにくい世界にするためではない。”個”が等しく自己実現できる社会を作るのが、わたしたちの課題だ。男の子二人の母親であるわたしは、そう考える。