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アイスランドから見る風景:vol.15 女性警察官の躍進と男性看護師の嘆き

先回に引き続き、今回も男女賃金差解消に向けたアイスランドでの試みについて考察してみたい。その中でも看護師と警察官の例を取ることにする。選んだ理由は、最近この2つの職種が交差する現場にわたし自身がちょうど居合わせたことだ。その上、偶然ではあるが、ここ10年来の男女比の是正に関し、看護師と警察官では大きな差が生じている。職業に対する世間一般の抱くイメージが、いかに職種の男女比に影響しているか、またそれを是正する努力をどのように行っているか、今回のコラムに綴っていこうと思う。

少し長くなるが、わたしが看護師と警察官と同時に関わった出来事をまずはお話したい。

昨年の10月、スポーツジムに行く途中で自転車に乗っていた高校1年生の息子が転んで怪我をした。時間がないと慌てて出て行った息子の背中に、表は暗いから道中気を付けるようにと声をかけたその矢先のことだった。壊れた自転車を道路わきに乗り捨てて帰ってきた息子を車に乗せると、わたしたちは急いで緊急治療病院に向かった。

移動中に話を聞いてみると、2台並走して向かい側からやってきたヴェスパ(小型バイク)に両脇を挟まれ、息子はバランスを崩して転倒したらしい。アイスランドのヴェスパは、原付1種ではあるものの、時速が25kmを越えないものであれば、13歳以上の子供が歩道で運転してもいいことになっている。接触事故が起こった場所が、周囲よりも小高くなっていたようで、息子も反対側からやってきた子供たちも、坂を上がり切るまでお互いが見えなかったことは想像できた。

双方が接触し、息子が自転車もろとも倒れたにも関わらず、ヴェスパに乗った子供たちは、転んだ息子の具合を確かめることなく走り去っていった。これにはわたしも憤慨した。電気スクーターやヴェスバに乗った子供が、二人乗りやスピードを出し過ぎて起こす事故をニュースで耳にすることはあっても、自分の息子を巻き込んでの当て逃げになると深刻度が違う。警察には通報するべきだと思ったので、移動の車の中で電話をかけた。事故について一通り説明すると、電話手は「救急車を呼ぶような大事でなくて良かったですね」と前置きしてから、事情聴取に警官を緊急治療室に行かせるから待機していてくださいと言った。使い物にならなくなった自転車について保険と話す必要もあったので、正式な警察の調書は願ったりだった。

病院に到着後、すぐに2階の怪我用緊急治療室に通してもらえた。通りかかった看護師さんが、息子の出血に気付き、受付に声をかけてくれたためだ。上がってみると、意外に待っている人は少ない。これだったら、きっとすぐに息子の番になるだろうと胸をなで下ろした。ところが、20分ほど経っても、待っている人が減りもしなければ、治療を終えて出てくる人もいない。心配になって、たまたま診察室から出て来た看護師に、出血しているからすぐに見てもらえないかと声をかけたが、ちらりと息子の手を見ると「みんな待っているから順番です。大けがにも見えないし」と不愛想な返答をされた。傷が深いかどうか分からないと反論すると、看護師は黙って横に座り、水と脱脂綿で息子の手をきれいにした。幸いなことに、確かに傷は深くない。言った通りでしょう、という目つきで看護師はわたしを見ると、「順番が来たら名前を呼びます」と言って、ドアの向こうに姿を消した。

不機嫌になったものか、感謝したらいいのか、何だか釈然としない気持ちで座っていると、携帯に警察官から連絡が入り、病院での居場所を聞かれた。2階の待合室だが、もしかしたら直に診察になるかもしれないと答えると「いいよ、いいよ。そうなったら終わるまで待っているから」という気軽な返事で、とても事情聴取をする警察官とは思えない緊迫感のなさだった。

さて、長々と状況を説明したが、読んでくださっている方たちにお伺いしたい。みなさんは、わたしが今回の出来事で関わった人物たちの性別をどのように判断しただろうか。警察・緊急通報の電話手、緊急治療室の受付、受付の近くで声をかけてきた看護師、2階の待合室でやり取りをした看護師、事情聴取の警察官、計5人の性別である。性別を考えてもみなかったのは、すでに頭に職業=性別の固定観念があるからかもしれないし、わたしの話の流れから自然に性別を引き出したのかもしれない。

冒頭の写真:首都近辺にある警察署とシフトを終えて署を出る警察官
上記の写真:アイスランドの総合病院と救急車

実は今回のエピソードで登場した人たちは、すべて女性である。警察関係は男性、医療関係は女性と思った方は、ある意味で普通だ。それは日本人だろうと、アイスランド人だろうと、同じように考える。一般的に警察官とはタフでハードな男性の仕事、看護師とは患者の扱いに長けた女性の仕事、というイメージに結び付く。ところが男性が看護師だったり、女性が警察官だったりすると、それまでの固定観念が急遽訂正を迫られ、対応されている側に理不尽な不満が生ずることもある。そしてこれこそが、少数派の性別の人たちが現場で体験する差別に繋がることにもなりかねない。

わたしは自分にバイアスがあることは自覚してはいたものの、今回の体験で自分の先入観をさらに再認識する羽目になった。慰めに満ちた口調でやさしく対応してくれた人たちが女性の看護師や医療関係者だとそれは当たり前、逆に不愛想だった場合は、途端に不満度がはね上がった。男性の看護師が同じように対応したのなら、不愛想でも冷静で仕事ができると判断したかもしれない。警察官に対しても同様だ。男性の警察官が気軽な口調で話せば、気さくな頼もしいヤツになっただろうが、女性警官だと何とも頼りなく感じて心配になる。自分の中ではそれほどまでに、性別による役割分担と職種が連携しているのだ。そして、これはなにもわたしに限ったことではない。同じように世間一般に当てはめることができる。

去る2月4日、アイスランド看護師協会が『性別に基づく看護師に対する職業偏見』という面白いセミナーを行った。現在アイスランドの看護師の97%が女性で占められ、男性は3%と驚くほど少ない。実はこれでも2012年の1%に比べれば男性看護師の割合は増えている。特に2018年に国が職場での男女比是正を目標に掲げてから、大学も看護師養成課程に男子学生を増やそうと奮闘している。しかしながら、その増加は亀のようにのろく、スズメの涙のように少ない。そもそも患者自体その半数は男性であることを考えると、男性看護師が歓迎されないのはおかしな話だ。ヨーロッパ全体がそんな傾向かというとそうでもなく、例えばイタリアでは男性看護師の割合は25%にも上る。そんな比較の中でアイスランドの状況は不自然にさえ見えるのだが、一体この現象はどこに起因しているのだろう。そんな問いかけが、今回のセミナーのテーマだった。

アンケート調査でいろいろ興味深いことが明らかになった。まず一般のアイスランド人は対応してくれる看護師の性別にはこだわっていない。回答した約91%近くが、看護師の性別はどちらでも構わないと答えた。次に性別による看護師の職業イメージが問われた。アイスランド人たちは、男性看護師だと治療が行える医療関係者だと見做し、女性看護師だと治療よりも患者の世話や手助けが職務の医療関係者と思うようだ。これは男性看護師のポジションが医者に近いのに比べ、女性看護師は医者の補助的な役目であることが暗示されているように思われる。さらに年齢別で見ると、看護師の性別が気になるひとは年齢が上がるほど増え、60歳以上の17%の男性は、できれば女性看護師に対応してもらいたいと回答した。

看護師に男性が増えない理由は何か、と問われたアイスランド人たちはこう答えた。それは、アイスランド人の価値観や文化・習慣から鑑みて、看護師とは本来女性の仕事と考えられているから。これは回答全体の1/3を占めた。別の理由は看護師の給与は低いので、男性の職業選択の対象にはならないというもので、これは回答の約1/3強だった。これは危惧すべき見解だ。なぜなら、前出の『看護師は女性の仕事』というアイスランド人の中のイメージが、そのまま低給与に直結してしまっているからだ。

数名の貴重な男性看護師が述べた体験は非常に興味深い。現在アイスランドで勤務している男性看護師たちの職場は、主に集中治療室や緊急・事故病棟での治療や手術のアシスタントが主である。職場が制限されるのは、何も就職してから始まったことではなく、学生のときの実技研修時からすでに体験しているようだ。特に女性や子供の介護・養護施設は男子学生の受け入れに積極的ではない。仕事を始めても、老人ホームや介護施設では歓迎されず、職場では患者や女性の看護師たちから、男なのに医者にはならないのかと職業選択を疑問視する意見を聞かされたり、ときには同性の患者から同性愛者かと訊かれたりもするそうだ。大学でも職場でも少数派ゆえに不必要な注目を浴びるか、逆に存在しないかのように無視される。そういった精神的なストレスのために、看護師という仕事に興味と情熱があっても、長期的に従事するのは難しく感じると胸の内を吐露してくれた。

いろいろな職を試したけれど、看護師が自分の天職であることを確信しているという男性は、アイスランド社会に定着している看護師=女性のイメージが害になっていることを指摘する。それは看護師の仕事をしている男性が、弱くて女々しいタイプであるという先入観、または同性愛者ではないかという疑惑と偏見のためだ。また職場の少数派であるゆえに、仕事のストレスを分かち合える同僚が少なく、しかも現場での労働環境改善に必要な、自分たちの立場を代弁してくれる男性看護師が看護師協会のトップには存在していない。後発であるから、男性が組織の中の高いポジションに至るまで時間がかかる。そのために、そこに行きつくまでに同僚たちは転職してしまうのだ。

アイスランド大学看護学部の学部長(女性)は、看護師は女性の仕事という固定観念を覆すために、小学校低学年の男の子たちから啓蒙していく必要があると述べた。小中学校の先入観のない子供たちの視野を広げ、大学で看護学を学ぶ男性生徒数を引き上げることが目標だ。欧米では、大学で学んだことが、将来の職に直結する。看護学を勉強する男子生徒が増えれば、必然的に男性看護師も増えることになる。

また男性看護師のイメージをポジティブに変えるようなPR活動も大切だそうだ。一番効果的なのは、社会で実際に看護師として活躍する男性が手本になることだ。芸能関係者やスポーツ選手のように華やかでなくても、こんな人がいて、こんな職業があるということを子供たちが知り、さらにその人が尊敬に値する人物であれば、看護師という職業への見方も変わるのではないかという期待がある。

レイキャヴィークの総合病院 患者さんと女性看護師

さて、このように女性数が圧倒的な看護師に対して、男性優位の職種と見做される警察官に目を向けてみたい。実はアイスランドでは30年前には女性警察官は存在しなかった。それが2014年には16%、そして2021年には32%と女性の割合が大きく増えている。現在首都周辺部の警察本部長である女性は、助産婦、看護師という職を経た後、アイスランド西フィヨルドの町・フーサヴィークで警察に入った。その当時彼女の同僚だった男性たちは、身体的に劣る女性が警察で何の役に立つのか、大いに頭を傾げたそうだ。その変化が目に留まるようになったのが2012年ごろ、弾みがついたのが警察官教育課程が大学に組み込まれた2017年以降である。以前は学部の34%が女子学生だったのが、現在では男子を越えて56%に至っている。この割合でいくと、女性警察官の数が男性を逆転することも近い将来起こりうる。

職場ではまだまだ男性警察官からの差別はあるそうだが、それでも話し合いを通じてお互いの溝を埋める努力は怠らない。この職場では女性が後発組なので、管理職や上層部の女性の数は半数に達していない。しかしながら現在では、部長レベルの11のポジションに女性が4名も占めるようになった。これは大きな前進だ。

女性が警察官だと、男性以上に働いて自分が有能であることを周囲に証明しないといけないプレッシャーがある。しかし、彼女たちは女性警察官の会のような公式・非公式な集まりを通して、自分たちの体験を他の女性と共有し、愚痴に終わることなく、その解決に向けて話し合う。その中で彼女たちが一番大切だと思うのは、性差で分断するのではなく、警察官という職務で男女の一体感を生むことだそうだ。よって仕事場では、男女差を思わせる言葉を避けると同時に、中立な立場の言葉を意識して使っているとのことだった。

アイスランド語の”警察”は、Lögreglaという女性名詞で、直訳すると法と規則という意味になる。lögreglumaðurというのが正式な警察官の呼び名であるが、通常は短い愛称で löggaと呼ばれている。この女性本部長はlögreglumaðurではなく、lögregluþjónnを警察官の名称として名乗るべきだと言う。そうすることで、マッチョな警察官のイメージが、国民に奉仕する職務者に変わり、職場の男女の性差別の解消に一役買うのではないかという見方からだ。

たかが名称、されど名称である。例えば、今回事情聴取に来てくれた女性警察官をþjónn、つまり”サービスを提供する公僕”だと考えると、こちらも人口に膾炙している「強く、たくましく、自分たちを守ってくれる頼りがいのある」イメージで警察官を見なくなる。わたしも名称が違っていたなら、彼女の対応をきっと不安には思わなかっただろう。

しかし、それではそんなふうにイメージを変えることで、警察官志望の男性の数はどうなるだろうか?仮に男性が減り続け、女性が大きく割合を占めるようになった場合、この職務も低給与というイメージを生んでしまうようになるのだろうか。

今回の一例をとっても、横の男女の平等は、社会全般の職種へのイメージに密接に結びついているために、実現にひと苦労、実現したらしたで、その後新たな問題も生まれてくる。しかし、その新しい問題は以前のそれとは質もレベルの違ったものになることは明らかだ。

各世代が、そのときに与えられた課題に真摯に取り組むことで、次の世代がきっと跡を引き継いでくれるだろう。そもそも社会問題とは、試験のように明白な回答があるものでもなければ、回答が正しければそれで終わりではない。なぜなら社会は変化する。その中に含まれる人たちも、彼らの価値観も、刻々と形を変える生きた現象なのだ。恐れるべきは、自分たちの力で変化を生むことが信じられないために、問題に取り組むどころか、その存在を提起することもなく、仕方がないと諦めてしまうことだ。文化や慣習という名目で怠惰を貪る社会には前進はない。その点、アイスランド人は諦めない。健全な市民社会であると言える。


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