アイスランドから見る風景:vol.22 シングヴァトラ湖でのダイビング
2022年12月31日年の瀬。ギリギリのこのタイミングで、今年最後のコラムをアップしたい。新年の抱負に反して昨年よりもコラム投稿数は減ってしまったが、仕事や経営に関する知識を増やすことで自分の視野を広げることができ、今年はそれなりにいい年だったと思う。今回は特に印象に残っている、シングヴァトラ湖にて今年の8月にダイビングをなさったご夫婦の手配に焦点を当てて、お話をしていこうと思う。
シングヴェトリル国立公園内にあるシングヴァトラ湖、その一部シルヴラ(Silfra)では、シュノーケリングとダイビングを体験することができる。ユネスコ無形文化遺産として認定を受けているシングヴェトリル国立公園は、自然遺産としても恥ずかしくない地質学上の特異性を秘めた場所だ。なんせ、湖は陥没した地溝帯に位置するうえ、この一帯は海底山脈の山頂部分、つまりユーラシア大陸と北アメリカ海陸の2つのプレートが東と西に分かれて移動している海のプレートの一部にあたる。ここで潜って見たいのは魚ではなく、水中にもある地球の割れ目・ギャウ(アイスランド語:"裂け目”のニュアンス)だ。ダイビングの猛者たちも、猛者たちであるゆえに、夏でも水温が5度に満たないこのシルヴラに潜ってみたい。ただし、ドライスーツを着た上でだ。
このご夫婦が連絡をくださったとき、早い時点でこのシングヴァトラ湖のシルヴラでダイビングをしてみたいという希望をいただいた。このようなリクエストはそれほど多くはないが、珍しいものではない。ダイビングツアーの主催会社とはお付き合いがあるので、手配自体にはさして問題はないものの、その際にわたしが留意するのは、ダイビングを希望するお客さんのバックグランドだ。問い合わせ時に、二人の年齢はいただいていた。わたしが次に確認したのは、病歴と現在の健康状態、ダイビング歴に合わせてドライスーツ体験の有無だった。
ご夫婦はダイビングのオープンウォーターのライセンスを持っておられた。しかも、だんなさんはこれまで150本潜ったという。奥さんはその3分の1の経験だが、だんなさんよりも年齢が若い。ただし二人ともドライスーツの経験はないと言う。わたしは主催ツアー会社の担当者に連絡を入れて、状況を説明した。一定の年齢を超えると医者の診断書が必要になるのは、以前の手配でも分かっていた。しかし、それ以上にダイビングツアーの参加条件に大きな変更があった。と言うのも、事前のオンライン研修と現地でのドライスーツ実技研修が参加前提になり、英語ができないダイバーは、現地での研修とツアーに同行する通訳が必要になったのだ。
コロナ以前にダイビングの手配をしたときには、お客さんから英語でかかれた医者の診断書を送ってもらえれば十分だった。日本では英語でかかれた質問をその場でさっと読めるお医者さんはそう多くはないだろうし、そもそも診察と診断書には手間とお金がかかる。しかし、そんな診断書の提出だけでは十分ではなくなったのには理由があった。
観光ブームになった2010年以降、ダイビングツアー時の怪我や死亡事故が連続して起こった。アジア人は英語の理解不足から、欧米人は持病や肥満など若くても健康状態が原因で、水温や水圧に耐え切れずに心臓発作を起こしたり、または器材の操作を誤って潜水病などに罹ったりすることが相次いだ。ドライスーツでのダイビングは、誰でも気軽に参加できるアトラクションではないことが明らかになったのだ。アイスランド政府観光局の指導の下、ツアー関係会社はさまざまな紆余曲折を経ながら、ダイビングに対しては規制を厳しくせざる負えなくなった。
わたしはご夫婦に状況を説明して、ダイビングはドライスーツ研修と通訳という付随するコストが嵩むので、シュノーケリングにしたらどうかと提案した。するとやはりダイバー歴が長いからか、どうせアイスランドのシルヴラまで行くのなら絶対に潜りたい、かかるコストはダイビングの必要経費とするので構わないというお返事をいただいた。そうか、そこまで決めているのなら、しっかりとお手伝いをしようとこちらも腹をくくった。
アイスランド到着までに済ませてもらう事項は2つ、英語で書かれた医者の診断書を提出することと、またオンラインでドライスーツに関する研修を受けて、研修終了時にテストに合格してもらうことだった。このオンライン講座は、ご夫婦が別々に行ってもらう必要があった。この試験結果がアイスランドでの実技研修の参加前提条件になる。診断書はわたしからツアー会社へ送付し、オンライン研修の結果はツアー会社に直接届くようになっていた。便利な世の中になったものだ。後日、オンライン講座の感想を伺ったとき、試験は合格するまで何度も繰り返して受けることができたから、間違えたところもしっかり身についたということだった。
到着後の日程は、長距離のフライトと時差ということを考慮して、まずはゴールデンサークルと南アイスランドのツアーに参加して、アイスランドの自然に馴染んでもらうように組んだ。その後1日の休息日を入れて、1日の実技研修、そして翌日シルヴラでのダイビングとした。研修には先生が付き、初めはドライスーツの実際の着用、装備を付けてのダイビングを温水プールで行い、その後は屋外の湖で同じようにダイビングをするといことだった。個人レッスンになることを祈っていたところ、前日の最終確認時に取引先からその日に同行する他のお客さんはいないとの連絡を受けた。
アイスランドの夏は長い。早朝7時にミニバンでピックアップされたわたしたちは、レイキャヴィークから20分ほど離れた隣町の温泉プールに移動した。到着後、先生が器材を卸している間、ご夫婦はドライスーツを着れる服装に着替えた。ドライスーツは洋服を着たままその上に着用するので、中に水が入らないように、隙間ができやすい首と手首の周りをしっかりフィットさせることが大切だ。着脱の手順を習い、実際に自分たちで着た後、ご夫婦は手袋やマスク、フィンや酸素ボンベを付けて、先生と一緒にプールに入った。浮き具合を確認しながら、先生は真剣な面持ちで二人のウエイトベルトを調整する。そして、空気の入れ方、抜き方、水中での止まり方などを実演して見せた後、今度は同じ過程を二人の日本人生徒と同時に行い、その後各個人別々に数回おさらいをさせた。
温泉プールでの練習はおよそ1時間半で終了した。コーヒーブレイクを取ったあと、20分ほどかけて今度はドライスーツ・ダイビングの屋外実践先に向かった。場所はレイキャヴィークから南西、昨年と今年続けて2回噴火したレイキャヴィーク半島火山エリアの東側にある湖、クレイヴァール ヴァトン。室内の安全な環境で学んだ技術を、シルヴラに似た屋外の自然の中で実際に行えるかが焦点になる。この訓練の結果次第で、明日のダイビングに参加ができるかどうか決まるのだ。それほどドライスーツは難しくない、というのが温泉プールでの二人の感想だった。しかし車から降りた途端、室内にはなかったアイスランドの風の冷たさを肌に感じて、即座に環境の違いを感じ取ったことと思う。
わたしには、2点ほど気になることがあった。温水プールでは、だんなさんのドライスーツの中に水が入ってしまい、着ていた洋服が濡れてしまった。ドライスーツを着ていても、濡れた洋服は体温低下を招くので、すぐに着替える必要がある。もちろん替えの洋服と新しいドライスーツの用意はあったので、湖で潜ること自体には問題はないのだが、また水が中に入りでもしたら、水温はシルヴラよりも高いとはいえ、感じる水の冷たさは先ほどの温泉プールとは比較にならないだろう。
もうひとつは風だ。水中に潜ってしまえば感じない風も、水に入るまではスーツを着ていても冷たく感じることは間違えない。しかも潜った後も車まで数メートル風の中を歩かないといけない。ドライスーツの脱ぎ着にも時間がかかることから、暖かい洋服に着替えるまで少なくとも15分くらいは見ておく必要があると思った。衣類やタオルが分かりやすい場所に置かれているか確認する。ダイビングそのものにかかった時間は、きっと30分くらいだったと思う。しかしその時間は、開放されて風が通り抜けるミニバンの中で待っていたわたしには、かなり長く感じられた。
水から上がってきたご夫婦の顔には、見紛うことのない疲労の色が見て取れた。だんなさんの洋服は、やはり再度濡れていた。奥さんには問題はなかったことから先生は首を傾げたが、水中で無駄な動きが多いと手首や首から水が入り込むことがあるという。だんなさんの方がダイバーとしての経験は長いものの、年齢も関係して寒さには弱いようだった。潜る際にスーツからの空気の抜くとき、また上がる際に空気を入れるとき、寒さのせいで調整に時間がかかり、それが無駄な動きに繋がっているようだった。わたしがそれをご夫婦に伝えたとき、だんなさんは、「試験落ちたかな…」と心配そうに呟いた。
この日にホテルに戻ったのは15時、休憩やドライブが含まれるとはいえ、8時間の実地訓練だった。先生はホテルに着くと、二人に明日のシルヴラでのダイビングを許可すると伝えた。ご夫婦が喜んだのは言うまでもない。二人が部屋に戻った後、わたしと先生は明日のダイビングでの留意点を再度一緒にチェックした。シルヴラの深いところは63メートルあるが、通常深くても潜るのは10メートルくらいだと言う。その日の状況とツアーの参加者の具合を見ながら、さらに深く潜るかどうかを同行するダイビングガイドが決めるとのことだった。
今回のトレーニングの先生は、ダイビングインストラクターとして長い指導歴を持つオランダ国籍の女性だった。ただ、アイスランドに来てからはまだ日は浅いとのことで、わたしが以前のシルヴラでのダイビングを様子を話すと、彼女は目を丸くして驚いた。ドライスーツを着たことがなく、しかもダイバーとしての経験が浅い観光客が、水温の低いシルヴラで潜るのは自殺行為だと彼女は言った。1日の実地訓練でできることは、ツアー参加者にアイスランドでのダイビングの最低限の知識を身につけさせることだ。お客さんの中では、普段あまり運動もしていないのに、シルヴラでのダイビングを希望する人、またはドライスーツが生まれて初めてのダイビング体験という人もいるらしい。このような人たちには、シュノーケリングに切り替えてもらっているという。もっともな話だ。
さて、翌日のツアーは10時半集合、着替えや事前の打ち合わせなどを含めて実際に潜ったのは11時45分頃だった。ご夫婦が幸運だったのは、この日のこの時間帯にダイビングを希望したのがお二人だけだったため、ガイドを独占できたこと。二人に一人のガイドだと、しっかりと目が行き届くので安心だ。ガイドさんには昨日の二人の様子を伝え、特に水中での上がり下がり時にだんなさんの側についてもらうようにお願いした。昨日2回スーツの中に水が入ったことを伝えると、この男性のガイドさんはなるほど、という顔をしたものの、だんなさんの首の周りのバンドはあまりきつく締めなかった。昨日と比べても、かなり緩そうだ。わたしがその点を指摘すると、「いや、これでいいと思うよ」との回答だった。
そして、コラムの一番上の写真のように、二人を誘導していく。一度少し潜らせて、ウエイトベルトを調整した後、再度戻れる地点、そこを経過したら、先に進むしかない地点を確認して、3人の姿は水面から消えた。小雨が振り出し、肌寒い。多くの観光客がいる中で、ダイビングをしているのはこの夫婦だけ。わたしが物思いにふけながら水面を眺めていると、次のシュノーケリングのグループを誘導していたスタッフが、わたしに声をかけてくれた。「あのガイドに任せておけば、心配いらないよ。彼は一流だから」その力強い言葉に、わたしが慰められたのは言うまでもない。
そして待つこと約40分。3人は無事、通常のダイビングのルートを辿って水面から上がってきた。唇を真っ青にしていた昨日の湖からの帰還に比べて、二人とも満面の笑みを浮かべている。顔色もとても良い。上手くいったなと途端に理解できた。潜り口と上り口が違うので、100メートル酸素ボンベを担いでドライスーツを着たまま歩かないといけなかったが、二人の足取りはしっかりしていて手助けも要らなかった。水の透明度が高く、水中のギャウもとてもよく見えて素晴らしかった、今回はスーツの中に水は入らず、ダイビング時も快適で、寒さはあまり感じなかったとだんなさんは言った。ガイドさん自身は、「いやあ、毎度のことだけど水は冷たかったよ」とわたしに打ち明けたので、昨日の湖でのレッスンがきつかった分、今日の潜りが辛く感じられなかったのかもしれない。二人が水中でしっかり自分についてこれたので、13メートルくらいは潜ったかなとガイドさんは言っていた。
とにかく無事にツアーが終了し、しかもご夫婦も大満足だったので、わたしもとても嬉しく思った。アイスランドでの観光は、自然が壮大である分だけどんな事故がいつあってもおかしくはないのだ。天候を含め、自然は一筋縄にはいかない。それゆえにツアー成功時の達成感は、すべての苦労を一瞬に相殺する力がある。現地でお客さんを受け入れるインバンドの仕事をしていると、いろいろな経験をさせてもらえるものだが、長くアイスランドの旅行業界にいても、毎年何かしら新しい発見ができる。それがわたし自身にとってどんなに素晴らしい体験になり、わたしの人生を豊かにしてくれるか、言い尽くすことはできない。
来年はどんなお客さんたちをお迎えすることができるのだろう。いまからわくわく心待ちにしている。