自分の心の冷たさに愕然とするとき
社会人2年目の冬のころ、足を引きずる若い女性を見た。
真新しいスーツに、手には黒い鞄で、いかにも就活生という風体だった。
私が見かけたのは最寄駅から自宅へ帰るまでの道すがらだったのだが、
彼女は本当にゆっくりとした速度で歩いていた。
足を引きずっていたのは、おそらく慣れない就活用のヒールで靴擦れを起こしたのだろう。右足だけをかばうようにして歩いていた。
しかし、静かな住宅街の夜道で、周りには誰もおらず、
「声をかけても、怖がられるか苦笑いを返されるかの半々だな」
と私はいつもと同じ速度で歩きながら彼女の横を通り過ぎた。
そして途端に思い出した。昔もこんなことあったなと。
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また遡ること数年、私が高校生のときだった。
放課後、部室から帰ろうと階段を下りる途中に二人の女の子を見つけた。
片方はうずくまって、もう片方はその子の背中をさすっていた。
泣いている、というよりは、大変体調が悪い、という雰囲気であり、
介抱する方もどうしたらいいのやら戸惑っている様子だった。
そしてまあ、その時も、ただ横を通り過ぎたのである。
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高校生の私はその日家に帰ってから
その階段での光景が忘れられなかった。
主体としてその時の行動を決めた自分と、
後になって客観的に自分の行動を評価した自分とで
あまりにも意見が分かれた。
そこで気づいたのだった。
「自分は良い人間ではないのかもしれない」
二人を見つけたとき、別に急ぎの用もなかったし、
声くらいかけてもよかったのではないだろうか。
何なら階段に差し掛かる前に二人の姿は見えていたのだ。
あえてルートを変えずに、手を伸ばせば触れるような狭い階段で、
いつもと同じ速度で歩きながら二人の横を通り過ぎたのだ。
通り過ぎた私の背中を、
介抱していた女の子はどんな目で見ただろうか。
どんな気持ちで。
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今となっては、その時声をかけなかった理由はいくつか思いつく。
そんなに難しい理由でもない、単に自衛心からだろうとわかる。
面倒ごとに関わりたくなかったというのが、
その理由のほとんどを占めるだろう。
内気な学生であった私にとって、
女子に声をかけるというのも少しハードルが高かった。
その子たちが私に「助けて」と言ったわけでもなかった。
だから助けなかった。
でも家に帰ったころには後悔していた。
助けたかった。
今でもそのことを思い出すのは、
自分が元来そういう人間だと自覚できているからだ。
危険性を事前に想定するだけのずるさと、
迷わず不干渉を選択できる心の冷たさがある。
がっかりするほど臆病な人間だった。
次にこの記憶を思い出すときには、
私は自分にがっかりせずに済むだろうか。
臆病な自分と向き合わなければならないと、
そのとき心から思った。
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