2000年代バイオバブルの源流にあったものとは
私は2002年に四年制大学を卒業しました。専攻は理学部生物科です。世は空前のバイオバブルを迎えていました。ヒトゲノム計画によるDNA配列のドラフト論文がnatureおよびScience両紙で公表されたのが2001年2月で、多くの学生が世界の潮流を信じてバイオ系の大学院に進学します。私も例に漏れず進学しました。
数年後、バイオ系のポストを巡る熾烈な競争に巻き込まれます。優秀な方でも学位を取ってもポストがない。ポスドクのポストすら少ない。修卒で就職する場合でもバイオの専門性を活かせる職種はあまり多くありませんでした。優秀でなく専門性に乏しい私はこの道を諦め、博士後期課程で中途退学してバイオ系とは異なる分野に就職しました。とても失望したのを覚えています。のちの人たちは、私たちの世代を失われた20年と呼んでいます。
いま思うと、大学院で修めた専攻とあまり関係ない分野で就職することはどの時代でもどの学部学科でも一般的なことですし、専門性を活かせない就職を不幸だと感じたのはずいぶん身勝手なことだったと理解しています。でも、当時の私は、なんだかハシゴを外されたような気持ちだったのです。あのバイオバブルが私の期待値を過剰に上げていて、専攻と就職の乖離を納得しにくいものに変えていたのだと思います。
先日、四年制大学と修士課程でお世話になった恩師の退官記念最終講義に出席しました。研究テーマの移り変わりを聞いていて、あることに気づきました。恩師は1991年に研究手法をガラッと変えていたのです。1991年以前は、生物が外環境に応答して外観を変化させる様式を記述する、生理学の手法がメインでした。それに対し1992年からは、変異体を作出して表現型を記述し、cDNAをクローニングして発現部位を特定し、過剰発現させたり、他の関連遺伝子の発現量を調べたり・・・分子遺伝学の手法に切り替わったのです。
恩師だけでなく、進化生態学を扱っていた別の教授の退官記念最終講義でも、1991年を境に、それまでのフィールド博物学から、DNA配列を根拠とした進化遺伝学に変わったことが語られていました。生物系教員がそれまでのマクロな研究対象や研究手法にDNAを急に取り入れ始める。それはどういうわけか1991年なのでした。
この教授たちは、1991年から在外研究制度(サバティカル)で海外の大学で数年を過ごし、そこで分子生物学の手技を学んで帰国していました。ヒトゲノム計画論文の、バイオバブルの10年前です。
少数の事例から一般化するわけにはいきませんが、おそらく、在外研究を経て持ち帰ってくる研究手法には研究対象や専攻を超えたトレンドが認められるのではないでしょうか。どの手法でも等しく持ち帰られるわけではない。研究手法には、移転されやすいものとそうでないものが混じっていて、移転されやすい手法だけが日本に「株分け」される。この教授たちにとってはそれはDNAであり分子生物学だったのではないか。そして、その株から花が咲くまでに10年かかった。
私は現在、企業において研究開発を担当し、大学と共同研究を進めているものもあります。日本農芸化学会は今年100周年、日本食品科学工学会は昨年70周年、日本薬剤学会は来年40周年を迎えます。これらの学会でも、研究対象や専攻を超えてAIやデータサイエンスを活用した報告が増えてきているように感じます。発表者たちはどこでAIやデータサイエンスを学んできたのでしょうか。私の共同研究者たちが頻用している研究手法は、どこで学んできたものでしょうか。
30年前と比べて現代の知識移転は遥かに高速で、在外研究者として海外に赴かなくとも研究手法を習得することは可能でしょう。上記のことは現在は当てはまらないかもしれません。でも、学史を眺めるときの視点として、あるいは学史を語る研究者の考え方のクセを読み解くための共有資源として、「サバティカル10年後ブーム仮説」を持っておきたいと思います。少なくとも、バブルと研究手法の流行りの源流にはサバティカルがある。そういう視点で学会の基調講演を聞いたりすると面白いのかもしれません。
日本農芸化学会第100回年会、2024年3月24日から東京農業大学等で賑々しく開催されます。失われた20年世代の元バイオ専攻者もひっそりとお邪魔しますので、興味ある方はぜひ。