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ロード・トゥ・『たいない』Vol.2 じおらま主宰/『たいない』作演出・神保治暉

こんにちは。じおらま制作の本多です。

じおらま旗揚げ公演『たいない』にむけ、出演者・スタッフの言葉を通じてこれまでの道のりを振り返る「ロード・トゥ・『たいない』」。第2回は、じおらま主宰であり『たいない』の作・演出をつとめる神保治暉(じんぼはるき)さんにお話を聞きました。

『たいない』が今回の形になるまでには、座組内で上演形態含めさまざまな話し合いがありました。その経緯や、最終的に台本を用いた上演となったことへの葛藤や不安、『たいない』で目指したい前時代的価値観からの脱却についてなど、ありのままに語ってもらいました。

※公演の内容に触れている部分がありますので、事前に一切の情報を入れたくない方はご注意ください。

「ハラスメントのない創作環境を作る」という共通認識に、何度でも救われる

作・演出/じおらま主宰の神保さん

――そもそもエリア51で活動されていた神保さんが、新たにじおらまという劇団を立ち上げようと思ったきっかけについて、改めて教えてもらえますか?

どこから話せばいいのか…昨年の春ごろ、ちょうど「てつたう」を上演していた時期に、演劇界でハラスメントの告発が増え、権力を悪用した事件や事故が可視化されてきたことがきっかけです。それに伴い、ハラスメント防止のために演出家と俳優を完全に分業させるべきというような、「それは行きすぎでは?」と感じる主張も目にして、個人的に危機感を覚えて。演劇のクリエイションは共同作業なので、分業できるものじゃない。お互いの尊厳を守りながら相互作用しあうモノづくりのやり方を模索するために、じおらまという劇団を作りました。

――なぜ劇団という形だったのでしょうか?

元々僕は、いわゆる「劇団」には否定派で。主宰がトップに立ったヒエラルキーがあって「この人の作品を作るために集まった」という形は、あまりよくないと思っていました。だからエリア51では代表がいない、クリエイター同士のゆるい連帯という形をとっていたのですが、そのやり方だとハラスメント防止の問題に向き合うときには、(構造的に権力側である)プロデューサー・演出側が圧倒的に孤独になってしまうと感じたんです。ハラスメント防止は集団の全員で取り組まないといけない構造的な問題で、みんなで何とかしようという共通認識が必要。なおかつそれを実現するには、指針を示して旗を振る人間がいなければ始まらない。そこであえて劇団という、責任者が存在するスタイルを選びました。

(詳しくは神保さんnoteにもあります)

――昨秋の立ち上げから約半年経って、劇団としての手ごたえはどうですか?目指すものに近づいていると感じますか?

いや…わかんないですね。劇団、集団って何なんだろうと悩み続けています。特にじおらまの場合、制作部の2人には本業が別にあるので(フルタイム会社員)フルコミットはできない。その体制でも運営していける形が、じおらまが目指しているサステナブルな演劇(※じおらまは「生活に必要な原資を得るための活動の場としない」というポリシーを持つ)だとは思うのですが、旗揚げ公演で手探り状態でもあるし。

あと、「(主宰である)僕のやることに正解がある」という形になってしまっているような気もして。各々がどんなビジョンを持って劇団に臨んでいるのかは日々考えています。

――今の時点ではまだ、目指す形に近づいているかはわからないという感じでしょうか?

うーん、でも、劇団としての完成形はないのかもしれない。それに、「ハラスメントのない創作環境を作る」という土台の共通認識があるだけで、何度でも救われるというのはあります。集団なので、「この人、何考えてるのかわかんないな」って思う瞬間も当然あるけど、ここに集まった人はみんな、パワーバランスの不均衡を防ぐことに情熱を持って参加しているんだなと思うと、ちゃんともう一度立ち直れる。

「出入り自由な演劇」の志向と断念

――『たいない』は、現時点では台本を前提とした上演になっていますが、ここに至るまでにも紆余曲折がありましたね。

元々僕は今回、何も書くつもりはなくて。理想としていたのは、みんなが自分なりの『たいない』を持ち寄って、関わり合いながら捏ねて作っていくような上演でした。でも、試演会を経て、どのような上演形態をとるかを話し合ったとき、座組のみんながそれをあまり望んでいないとわかって。試演会の延長のようにテキストがない形態のA、テキストはあっても俳優がいつでも休めて代替可能なようにシーンの組み合わせで作っていくB、テキストありのいわゆる「演劇の上演」であるC、3パターンどれがいいか話し、みんながCを望んでいた。

――神保さんが元々イメージしていたテキストがない上演というのは、いわゆるインプロ、即興ということですか?

説明する上では即興に分類されるのかもしれませんが、”即興”そのものがやりたいわけではないです。みんなが自分の思う『たいない』をやって、それがひとつの集合体になる。観客も俳優も出入りが自由で、もしかしたら俳優が誰もいない回があるかもしれない。その"出入り自由さ"こそが、ハラスメントのない演劇を目指す上で必要だと考えたし、今回それをやるのは「上演」自体の新たな形として、長い目で見たときに意味があると頭ではわかっていたんですが…僕自身の身体も、普通に演出したい、シンプルに上演したい、その方が面白くなるんじゃないか、とうずうずしてきてしまった。

あとは試演会を経て、改めて俳優とパフォーマーの違いについて考えたのも理由です。俳優は役として、パフォーマーは本人としてステージに立ちますが、僕の思っていた上演の形は、どちらかというとパフォーマーの在り方に近い。今回の『たいない』は俳優を募集したから、集まってくれたメンバーは俳優であってパフォーマーではない。だから今回は台本に基づいて上演することにしました。

――ちなみに、神保さんが考える「出入り自由な演劇」の仕組みだと、「この出演者が見たい」と思って来場しても、その人が出ない可能性もあるわけですよね。

そうですね。僕は「俳優を見たい」という来場動機自体に限界があると思っていて、でも今の日本だとそれでしかお客さんを呼べない状況があるから、本当に長い目で見たときには変えていかないといけないと感じています。

――「誰が出演してどういう内容だとしても、そこで行われることを見たい」という人を集めたい?

作品として、原案や公演の枠組み、その上演形態をとる理由などはあるので、取り組み自体に興味を持って見に来る方が集まったら、新しい演劇のジャンルになるんじゃないかと思います。

「演出家」の立場になった自分のマッチョさが怖い

――集中稽古に入ってからの手ごたえはいかがですか?

…めっちゃ大変です。気づいたんですけど、演劇を野球の試合に例えると、演出家ってピッチャーなんですよ。デッドボールのリスクはゼロじゃないけど、ボールは投げ続けないといけないし、誰かを俳優=バッターの打った球でケガをさせても、そのボールを投げたピッチャーの責任になる構造がある。だからテキストに基づいた上演をすると決める前の僕は、ハラスメントをなくすために、ボールなしでどうやって野球するかを考えていたんですよね。ボールがなければケガをさせることもない。

でもテキストに基づいた上演をすると決めて、自分が「演出家」という責任者になってから、どんどん身体のエンジンの回転が上がってきて「マッチョになってきてるな、怖いな」と思います。ボールを投げ続けなくちゃいけなくて、いつ誰かにデッドボールを食らわすかわからない構造の中で、公演に間に合わせるために焦っている。稽古場で注目をひくために声が大きくなっているのも感じます。僕は元々、性格的にさほど人に怒ったりむやみに否定するタイプではないと思っていますが、それでも演出の中では違ったらそう言わないといけないので、誰かが傷ついているかもしれないと思うと怖い。そんな中でも稽古場では元気に明るくいなければいけない。不均衡だと感じるときもありますね。

――じおらまには元々「完成しなくても大丈夫」という合言葉がありましたが、それは今はもう働いていないと感じる?

そうですね…今は「千秋楽までに完成させる」という合言葉になっていて、俳優にとってはそれでいいと思っています。でも演出は、途中で変わるとテクニカルなど他の人を大きく巻き込むことになって、それは暴力的なので、やっぱり初日までに決めなきゃいけないですね。だから今はシンプルに日々完成させにいってます。

――つらいですか?

つらいです。でもテキストに基づいて上演すると決めたときに覚悟しました。だから、これは不当なつらさではなくて、90分~100分規模の公演を作るために発生するつらさです。

「外に出られる」と信じて掘り崩していきたい

――今回の『たいない』について、ご自身が思う面白さはどんなところですか?

…希望があります。大きな事件や強い物語があるわけじゃないけど、照明が光って、俳優がいて、音楽がある。その中ですごく根源的なものを探っている感じ。たとえば日の出ってシンプルに希望を感じるじゃないですか。すり減っていく毎日の中にも、そんな光があるんだなって。

映画にしても演劇にしても、光がまずあるんですよね。人って光が見たいんだなと思う。どれだけ大変な毎日の中でも、光が救いになるという、いちばん小さなことに気づかせてくれる作品だと思います。

――今回の『たいない』の舞台設定はディストピア的な近未来。登場人物は雑誌編集者の”私”、コンビニ店員の”アオリ烏賊”、現場監督の”ダースモール”、そしてこの世界のあらゆる声をつなぐ交換手”コエ”です。この世界観を設定した理由は?

僕は原作の『胎内』を初めて読んだときから、あの終わり方に納得していなくて、「どうしたらあの3人が死なずにすんだんだろう」とずっと考え続けているんですが、その応答です。

昭和の『胎内』では、物理的な圧迫や閉塞、戦後すぐの経済的困窮の中で3人が死んでいった。それは現在も続く家父長制社会や、新自由主義の根っこでもあるわけですよね。当時としてはセリフにもあるように「しょうがなかった」けど、今はそれを変えていかなきゃいけない。ホラ穴で死んでいった3人に対して何ができたのかを考えることが、前時代的な価値観への反発になる。

稽古中に今回の(”コエ”を除く登場人物)3人は、『胎内』の3人の生まれ変わりなんじゃないかと気づいて。現代では、モノは溢れかえって、人もたくさんいるけど、人と人の間にあるわずかな空間で窒息している。せっかく生まれ変わったのに、SNS、政治、世界情勢の不安とか、見えないものに圧迫されて、結局、虚空を掘って死んでいくという恐ろしさがある。

――でも今回はそこで終わらず、光を見せたいと。

今回の『たいない』も、きっと3人誰も助からないんですけど。でも「光って希望だよね」という気づきは圧倒的に正しいんだと、お客さんに伝えたい。きっとみんな閉ざされたホラ穴の中を生きていて、それでも「入り口を閉じられているからといって、外に出ようとしない理由にはならない」ということを、演劇を観て感じてほしい。

これはハラスメント問題における思考停止的な考え方への応答でもあると思っていて。「だって解決しようがない」「ハラスメントはなくならない」という、昭和・平成にかけて培われてきた諦観が無力感を生んでいると思うので、「外に出られる」と信じて掘り崩していきたいです。

――最後に、『たいない』をご覧になった方に、どんなものを持ち帰ってほしいですか?

…東京を好きになってほしい。僕はほとんど東京で生活して、東京で働いているけど、東京にいる人ってみんな息苦しそうだなと思ってて。それは東京という町への愛情、“自分の町”という意識が薄いからじゃないかと最近考えているんです。投票率の低さなんかもそう。でも、町は全部人の手で回ってて、電気、水道ひとつをとっても人の働きで動いている。そんなところに思いを馳せて、「この町、いいな」と思ってほしいです。


じおらま『たいない』
2023年5月19日(金)〜28日(日)こまばアゴラ劇場
19(金) 19:00
20(土) 13:00
21(日) 13:00/18:00
22(月) 休演日
23(火) 19:00
24(水) 13:00/19:00
25(木) 休演日
26(金) 19:00
27(土) 13:00/18:00
28(日) 13:00 

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