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大場ななと劇場版に関する小考

視聴済み:アニメ、ロロロ、舞台#1・2 revival

大場ななという女、クソデカ母性に溢れてて最高である。これだけははっきりと真実を伝えたかった。
これで伝えたいことは9割だがもう少しだけ語りたい。ワイルドスクリーンバロック(以下、WSB)とはそも何なのかとか他の考察系の記事とかで優秀なものはたくさんあるので、自分なりに劇場版での彼女について感じたことを少し考えてみる。

大場ななはループを繰り返しているというその性質上、俯瞰的なセリフが多く、劇場版でも他の8人とは異なるポジションで物語を動かしている。
それは彼女の立ち位置にも表れていて、寮での雑談では一人外に出ており、WSB開始の電車の中では一人だけ席に座っていない。まるで他の皆の気持ちを確認するかのように。

「みんな喋り過ぎだよ」
と、序盤では新国立の見学に浮かされていて、次の舞台への飢えを忘れてしまっている6人にやきもきしている。ロンドロンドロンドの最後の時点でななのスカートから8人分のボタンが落ちたのは、既に彼女達から舞台少女としての矜持が失われていることを示唆していると見てよいと思われる。
しかし彼女自身も進路相談では舞台に立つのか裏方なのかを選択しあぐねており、明確な覚悟を自身でも示せていない。
その中でWSBの明確なトリガーになったのは、純那の「いつか主役を……」のセリフを聞いてから。もう我慢ならなくなったななは皆殺しのレヴューを始める。

皆殺しのレヴュー
「これはオーディションにあらず」
これは劇場版すべてのレヴューに共通する意味を与える重要発言。本作におけるレヴューでは勝敗自体はさして重要ではなく、お互いのあり方に決着がついた時点をもって終了となる。その意味では、皆殺しのレヴューは舞台少女が舞台少女であるための矜持を確認するものだった。

「なんだか強いお酒を飲んだみたい」
ななはこのセリフでこれが舞台であるということを皆に端的に問いかけてくる。なぜかって?皆未成年だからだ。現実ではありえないそのセリフは、非現実である舞台という存在を象徴的に炙り出す。そしてななに対し、私達未成年じゃない……、と演技を、舞台少女であることを止めた純那が最初に首から血を流す。それ自体が舞台装置によるものと認識できていないことからも、そもそも自身が舞台に立っていることを認識できていないのだ。それを皆に気づかせた真矢だけは舞台に立つ意味も答えられており、それゆえ星も落とされていない。ななは純那にだけはその思いを持って欲しかったんだろうに……(泣)。

レヴュー最後の「私達、もう……死んでるよ……」では、もう、で電車が切り離されて遠ざかっているのに、死んでるよ、では逆に声が迫ってきており、非常に強いインパクトを与えている。

狩りのレヴュー
みんな大好き狩りのレヴュー。
複数回映画を見たのはこれが目的と言ってもいい。とにかくいい。何回でも見ろ。

大場映画株式会社のフィルムが電車での純那のセリフを再生する。
このまま腐り落ちていく果実なら、もがきあがく舞台少女として美しく死んでほしい。そんな気持ちで狩りのレヴューは始まるのだが、むしろななが純那を自分の望む姿のまま記憶に留めておきたいだろうことを考えるとこの構図は面白い。あと、がお⇐とてつもなくかわいい。

純那の星(きらめきではなく文字そのもの)では、ななには響かない。アニメ9話でななが何より貪欲に求めていたのは純那自身の言葉だから。
届かず、足りず、美しい純那を留めておくべく、カメラを手に馬乗りになるなな。
そして私の望んだ純那ちゃんとして死んでもらうべく、自分の舞を差し出す。帽子の下のトマト(舞台少女の象徴)を潰したのは正にその意志の表れである。個人的には、ここで「君は、まぶしかったよ」に対する純那の「なんで過去形なのよおぉ!」がくっそダサくて惨めなのが、自分の言葉を取り戻す過程でのギャップを演出してて最高。

レヴュー終了後、ポジションゼロモチーフから左右に分かれて次の舞台へ歩み始める二人。
「終わったのかもしれない、私の再演が、今」
使命感から解放され、元々の泣き虫っぷりを見せるなな。いや、誰でも泣くでしょこんなん、ズルいわ。進む道を決めた二人に停滞のメタファーであるカメラは必要ない。

「いつかまた、新しい舞台で、一緒に」
その純那の言葉は、ななに舞台で生きていく決意を与えただろう。そして元々進学を考えていた純那にもその覚悟を。EDでは、二人の未来が希望を持って示される。ある意味なながきっかけとなって始まったWSBによって、二人は後悔のない選択を行うことができた。
ところでEDの「そう、皆とちゃんと会えたんだ」ってイギリスでひかりと同棲してるってことなんですかね。私、気になります。

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