ベートーベン ピアノソナタno.32 op.111

本当は大家の演奏で堪能したい大作だが、中々コンサートへ行けない世の中になっているので、自分で弾いてみることにした。ベートーベン最後のピアノソナタ。まだ譜読みし始めたばかりでわからないことばかりだが、わからない状態から少しずつ何かを掴んでいく過程を書いてみることも面白いかもしれないとの思いで記してみよう。
このソナタは実演で何度も聴いているが、最も印象に残っているのが2014年のダニール・トリフォノフ@オペラシティ、そして2019年のミハイル・プレトニョフ@浜松アクトシティ。それぞれにプログラミングも面白く、演奏スタイルも違っていて強く印象に残っている。
トリフォノフは前半にバッハの左手のシャコンヌ+ベートーベンの32番、後半にリストの超絶技巧練習曲全曲という化け物のようなプログラムだった。ピアノはファツィオリ。全体を通して最も印象に残ったのがベートーベンだった。人間ってこんなに高みに昇ることが出来るのか…と圧倒されるような体験。“聴く”を越えて“体験”のレベルまで連れていってくれる神憑り的な演奏って時々ありますね。リサイタルを通して彼はどの曲もそれはそれは素晴らしく演奏していたが、ベートーベンは別格だった。それは彼が他の曲よりベートーベンを上手く演奏したという訳ではなく、作品自体の“格”の違いからくるものだと思う。ピアニズムという観点から見れば、リストの超絶を全曲通して弾く若い天才を目撃出来たことはエキサイティングな体験だったし、彼はこの作品の中で才能の火花を散らし、信じられないレベルの演奏をしていた。それでも、ベートーベンの深さは別格だと思わざるを得なかった。リストを弾くとき、彼はあれだけの難易度の作品を完全に自分の手中に入れて演奏していたが、ベートーベンを弾くときには途方もないものに挑み、エベレスト級の作品に必死に挑んでいるように見えた。実際に、ベートーベンを弾く前だけは前のめりになって足早にステージを歩き、ぞんざいに頭を下げ、間髪入れず弾き始めていた。その姿からもいかに彼がベートーベンに賭け、集中していたかが感じ取れた。そして、まさに全身全霊をかけた演奏で、ベートーベンの到達した宇宙的な世界に迫っていた。そこに聴衆も一緒に連れていってくれるような、開かれた演奏だった。

トリフォノフが若々しくオープンな演奏で魅了していたのに対して、プレトニョフはある種の孤高の世界を作り上げていた。プレトニョフはベートーベンに畏敬の念を持ち、傑作に挑むというレベルを通り越し、ベートーベンに心から親しみ、共感し、ベートーベンを慰めているかのような演奏だった。楽器はシゲルカワイで、ピアノにこんな音が出るのかと驚かされる美しい音だったことも印象的だったが、演奏者とベートーベンが肩を並べているような、崇める対象としてではなく横並びの視点から演奏をしているということが私にとって強烈なインパクトとなった。

2つの対照的な演奏を頭の片隅におきながら、これからこの作品と共に過ごせることをとても楽しみにしている。今日譜読みをしていて感じたことは、この曲は俗世的なことをさっぱり忘れさせてくれるということ。ミクロからマクロへ広がる感覚を与えてくれるということ。大いなるものに自らの手で触れるという幸せがあるということ。なんだか、この曲を弾けるようになったら人間的にレベルアップ出来そう。

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