「データを根拠とする」の根拠とは
長さを測るために物差しを使ってました。
ただ、ある時、この物差しの目盛りが1cm,1mmなのか不安になりました。
この場合、1cm,1mmの基準を持ってきて、それと比較すれば、正しく測れる物差しか判断できる。
(ちなみに1cmは1mの100分の1であり、1mは一秒の299,792,458分の1の間に光が進む速さで定義されてるらしい)
昨今、データを意思決定の根拠とする風潮が巻き起こっている
官公庁のEBPMしかり、データサイエンスの流行を見れば明らかだろう。
ただ、「データを意思決定の根拠とする」根拠はあまり聞かない。
大企業や国を動かす官公庁がデータを根拠とすることを正としているのだ、確実に良いのだろう。いや良くなかったら、それは普通に終わり。
「データを意思決定の根拠とする」はどのように選定されたなのだろう。数ある根拠の中で選ばれる理由はなんだろう。
ここで、「データを意思決定の根拠とする」の根拠をデータに頼るのはナンセンスである。
物差しAの目盛りが不安になり、物差しAと同規格のA'で1cm目盛りの信憑性を測ることと同義と考えられる。
全ての物事の良し悪しを測る神のような超越的存在が、データを根拠とするのは良しとしない、と理解しているとする。
しかしたかが人間はそのような判断は知ることはできない。
そしてデータを根拠とするため、データ分析を行う。
データを根拠とすることそれ自体悪であるが、悪い測り方で悪いものを測ったところで物の真の価値は確実に分からない。
すなわち、意思決定の根拠を決める時、すでに意思決定してしまっているのだ。ではその「意思決定の根拠」を意思決定する際の根拠、原根拠と言うべきものはどのように決められるのだろう。
論理性は根拠の中で絶対的な立場を持っている。
データを根拠とする場合の根拠を論理的に導出できた場合、ようやく使えるようになるのか。
他の根拠(勘や経験)と比較して優れてれば良いのか。どのような観点で優れていれば良いのか、僕には分からない。
そして原根拠の根拠もまたこの判定に飲み込まれる。
「他より優れている」の螺旋は始まりが見えない。根拠の「不動の動者」は何なのだろう。
こうした無限後退に容易く陥る我々は、何も悲劇的ではない、と思う。
確実な足場はなく、常の不安定さの中で、バランスを取って頑張って立っている。
こうした緊張感に晒されているからこそ、より安定した足場を探すため、我々は足を踏み出す。
その一歩は、更なる不安定さを引き起こすかもしれない。しかしであれば何とかして一歩下がれば良い。
今より安定した足場に踏み出せれば、その足は引っ込めず、その足場を次の土台とし、よりよい足場を探す。
このループは牛歩である。失敗を当然とするが、しかし確実に前には進めるのだ。
最初から正解を得られるのは楽だ。
我々は頭が悪いので、正解を得られない。そもそもそれが正解かすらわからない。
しかしそんな頭の悪さだからこそ、我々は前に進むことができる。
誰がゴールテープを切った後、走り出すのか。
ゴールテープが遠いからこそ、走り出せる。その道中ドラマを紡ぐ。転んだ、立て直した、我々は一喜一憂しながら、走るランナーに目を奪われる。