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【こ】国語で日本語を学んだ僕は、日本語の壁に囚われている
タイトル50音縛り。
かるたみたいに、【あ】【い】【う】……で【ん】まで書くという遊びをしています。
第10回【こ】は、
国語で日本語を学んだ僕は、日本語の壁に囚われている
ずいぶん前なのですけど、宇多田ヒカルさんのインタビュー見てたら
「作詞する時、いったん英語で考えてから日本語に変換する」と言ってました。
宇多田ヒカルさんの独特な言い回しは、その過程で生まれたものなのでしょう……テレビ番組の中ではそう解釈されていました。
僕はこう思いました。
「言い回しだけじゃなくて、考える内容自体もずいぶん変わってくるんじゃないか?」
国語で日本語を学んだ僕。
考えごとは当然、すべて日本語で行なっています。恋の悩みも、仕事の挫折も、未来の展望も死生観も。
すると、やはり……日本人らしい思考になるのではないか?
日本人らしさを超えられない、そこが僕の限界なのではないか?
そんなことをよく思うのです。
これ、考えてどうなることでもないんですけど……ちょうど、ロールプレイングゲームの世界の果てみたいに、日本語の壁が存在するイメージがあって🤔その限界より先へは行けない。
「日本語の世界」は広く、深く、一生かけても調べ尽くせない規模のものです。
だから、文句はない。でも……やはり、その限界を意識しないわけにはいかない。
こうしてnoteを書いている今も、その限界の、枠の中にいるのです。そしてそれを僕は、無視できない性格をしている。
これから英語を学んでマスターしたとしてもきっと、まず日本語で考えてから英語に変換するのでしょう、僕は。
うーーーん🤔
なんかもっと、身体言語とか、素敵な絵画を見た時の言語化できない感じとか、そっちの方に思考を拡張していけないのかなぁ。
この間見たドガの絵、なんかすごくひっかかったんだよなぁ。あの感じ、たぶん壁の向こうのものなんだ。
そんなことをよく考えます。日本語で。