「リフレーミングをすれば何でも長所に!」は流石に言い過ぎだろ。てか、そもそも意味あんの?+自己PRについて

 タイトルの通りです。しばしば、就職や進学に於いての自己PRで、短所を長所へとする際に用いられます。私もこの用語自体は中学生3年の進路活動の中で知りましたが、その時から既にこのような用い方には懐疑的でした。当時の私は、「そんなハッタリかませたら俺でも推薦で神代(*注釈1)ぐらいのレベルまで受かれるわw」など思っていました。結局私は一次試験で爆死し、二次募集で底辺不人気校に進学したのはまた別の話です。
 話が少々逸れましたが、そんなに旨い話はあるわけないでしょうという話です。ここから具体的な例を出していきましょう。

 最初に、身体的なハンディキャップは本当に長所に言い換えられるのかと言う話です。最初から極論で恐縮でしかありません。それで、非常にデリケートな話題ですから、ここでは多くの人が持つとされる近視を中心に話していきたいと思います (身体的なハンディキャップと言えるか微妙なラインですが…) 。
 近視と言うことは目が良くないということですよね。そんなことは言われなくても分かっていることと思います。「良」く「ない」と「良」を打ち消していることからも、短所だろうなと推察ができます。では、これを如何にして長所に持っていくのでしょうか。まず無理でしょう。だっても何もありません。目が悪くて得するのは、伊達眼鏡ではなく眼鏡をかけられるぐらいでしょうが、苦し紛れの言い訳です。得と最初に申しましたが、冷静に考えて目が悪い時点で既に得ではありません。更に「目が良くない方の気持ちがわかる!」なんて言われたら、なんでもありも良いところです。リフレーミングと言うよりそこまで来たら屁理屈です。
 他にも、これは少し論点がずれてしまうのですが、仮に長所に持って行けたとしましょう。その短所だろうところが短所に断定されてしまいます。それらハンディ(と私達が一般的に言う)を持っている方が自分から言うのは良いでしょうが、外野が勝手に言い出したりしたら普通に失礼です。
 最後は自分で言っておいて説得力ゼロかつ詭弁なので、無視して頂いて構いませんが、敢えてだろうを太字にしたことについて察して戴けたならば幸いです。今回の話の裏テーマでもあります。

 次に、そもそもそこまでして短所を長所に見せる必要があるのでしょうかという話です。実際、本質的には何も変わっていないし、後々悪いほうがバレてしまうので意味がないと思います。
 例えば、せっかちを行動が速いと言ったところでせっかちには変わりません。「頑固は芯が強い?いやだから頑固なんでしょw」とか「臆病は慎重?ポケモンの性格補正だと前者はSが上がってAが下がる。後者はDが上がってCが下がる。別物です。」と言われても何も言い返せません。なぜなら前者のように本質的には何も変わっておらず、ただ言葉の綾で姑息的に取り繕っているだけか、後者のように他のよく聞こえる特性にこじつけているだけだからです。無意味の極みです。後にそれらが暴かれて面倒になるくらいなら最初から嘘などつくべきでないでしょう。

 以上の理由から、「リフレーミングをすれば何でも長所に!」は不可能だし、そもそもわざわざする意味が希薄と私は考えます。胸張って長所を言えるような人間は少ないでしょうし、短所があってもの何も普通ことです。それは、命はいつか終わることと同じ程度です。逆に、自身の個性に一喜一憂することも同じくらい普通です。
 最近巷で言われている、貢献やら経験やら自己PRやらが大事だと言うことは間違っては無いのですが、あまりにも世知辛いように感じます。それを表すように、大学入試はAO等推薦の枠が徐々に増えつつありますし、自分のことを知らなければならない世の中になっていることを確かです。長所や短所を含め、自分の個性と言うものは漠然たるもので、態々断定すべきものでないのに、最近は断定したがります。社会がそうなっている以上従わなければなりませんが、世の中がもう少しふんわりとした感じで個人と向き合ってくれれば好ましいと思うと同時に、そうなって行くことを願って止みません。

注釈


(*注釈1) 都立神代高校のこと。偏差値は50台後半。

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