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愛する側の人間でありたい

この令和の時代に、今更ながら『化物語』を読んでいる。完全初見。事前知識一切なし。

その下巻を読んでいる時に出会った、ワンシーンについて書きたい。いや、正確に言うと、その中の1つのセリフ。全体的に好きなシーンだったのだが、特に凄まじく衝撃を受けたセリフがあったのだ。

場面は、ヒロインの戦場ヶ原ひたぎの父親と、主人公の阿良々木が車内で二人きりの場面。娘の彼氏である主人公に、父親はこう言う。

「ひたぎは愛する側の人間だから」

西尾維新『化物語』 下巻p227より


なんてことないセリフのように、一言で書かれたこのセリフ。これにガツンと衝撃を受けた。


「愛される子」なんてことばは、よく聞く。
「あの子は本当に笑顔がすてきで、周りから愛されてた子で…」
みたいに。「愛される側の人物」なんていうのは、想像しやすい。愛嬌があって、可愛らしい人なんだろう。

でも一方で
「あの人は、愛する人でした」
なんてセリフは聞いたことがない。
「愛する人に伝えることば」みたいに使われることはあっても、形容詞的につかわれるのは、自分は聞いたことがなかった。

「人を愛すること」と「人に愛されること」。この2つは別に矛盾していない。普通は、どちらの側面も持っている。家族や友達に愛され、同僚や恋人を愛する。それが普通の人生だ。

しかし、もし「人を愛する側」と「人に愛される側」のどちらかに人類を分けるとしたら。自分は、どちらなのだろうか。周りの人たちは、どっちなのだろうか。

そんな発想は持ったことはなかった。だから、このセリフにまず惹かれたのかもしれない。


そして、もしこの2極化で選ぶなら、「愛される側」のほうが絶対にお得だ。色々と享受できそうな感じがする。一般的にも幸せな人生だろう。

だが、戦場ヶ原ひたぎの父親は、自分の娘をそちらに分類しなかった。「愛する側」だと主張したのだ。その後のセリフも、おもしろい。彼は娘をこう表現する。

「だから、しかるべき相手には、全体重をゆだねる。全力で甘える。
愛するっていうのは、求めることだからね。
自分の娘のことでなんだか、恋人にするには、重すぎる子だと思うよ」

西尾維新『化物語』 下巻p227より

「愛すること」を「求めること」と、解釈する。これも面白い。何だか自分のイメージと真逆だった。単語からのイメージとしては、愛とは見返りを求めず、一方的に行うものと思っていた。

しかし、よく考えれば「無償の愛」なんてことばがあるくらいだ。愛には、何かしらの見返りがあるべきという意識が、皆にもあるのかもしれない。よく考えると、納得感もある。

例えば、恋人。愛ということばからすぐに連想されることばだ。恋人を愛するとき、何も求めない人間はいないだろう。相手からの愛を求めるし、より具体的で俗物的なことをいえば、彼氏/彼女になって、性的な関係を求めることがセットだ。

家族や友人に対しても、何も見返りを求めていない関係なんてあるだろうか。別に具体的なメリットじゃなくても、一緒にいて楽しいとか、安心できるとか、そういった「見返り」を求めていない人は、いないと自分は思う。無意識下で、みんな「何かを求めて」人を愛している。

ちょっとドライすぎる考え方のような気もするが、自分にはしっくり来た。人間なんて、それくらい利己的であるとしたほうが、納得できる。ロジカルに説明できる関係性のほうが、安心もできる。そうして、合理的に生きてきたらか、人類は進歩してきたのだから。


自分はどっちだろうか

じゃあ、このロジックでいうと、自分は人を「愛する側」なのか、「愛される側」なのか、どちらか。この2択だと、「愛する側」かも、と思う。

自分はアニメやら小説やら、日本のサブカルが好きだ。こうして長々とコンテンツに対しての感想を書くことも多々ある。だけども、無条件で肯定することはしない。好きだからこそ、もっといいものを、自分を満足できるものを、「求めて」しまう。


過去、何度か、注意書きを入れながら、色々なコンテンツの批判めいたことを書いたこともあった。だけども、それはそのコンテンツのこと自体を愛しているからこそ、期待があったからこそ、文章で書こうと思うくらいに、気持ちが募ったのだ。

いつも、作品を全肯定できないとき、自分は本当にひね曲がってイヤなヤツだなと自己嫌悪にかられる時があった。でも、それは「愛している」からこそなのかもなぁ、と思えた。ちょっと、このセリフに救われた。

もちろん、ひたぎの父親が言うように、「重くて」やっかいなファンには間違いないだろうけど。でも、自分は「愛する側の人」であり続けたいなと、少し自信を持つことができた。


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