7/1,7/2日記

・ダーツバーで知り合った同い年の子に誘われ、モーニングを食べに行った。
名古屋コーチンの卵を使用したエッグベネディクトを注文。卵の良さでは説明がつかないほどクリーミーで、とてもおいしかった。
安くはないが、満足いく食事だった。
ワインの試飲に行った時に思ったが、高いものをゆったり食べると量をこなさなくても自然と満足できる。逆にやすいものをパクパク食べているとどんどん詰め込めんでしまう。

・2時から科学館へ行く約束があったため、4時間くらい名古屋でつぶすことに。(10時にモーニング開始で終了11時だったので実質3時間)。
109シネマズまで足を延ばし、見たい映画の時間が合わないことを確認。インディジョーンズがあったが、2時時間半くらいあったため約束に間に合わず断念。
その後は本屋を二つ回り、アダムスファミリー全集の文庫版を買ってきた。
すこし前にAmazonで探した時は大判かつ絶版らしかったのだが本当に運がいい。
また、アンミカさんの人生相談の本とダ・ヴィンチ・恐山さんのウロマガを立ち読みした。
ぱらぱらめくっただけでもかなり読める。いい本なんだろうな~と思いながらきちんと平積みのヤマに戻し、角までピシッと整えてから本屋を出た。
そのうち買います。電子なりなんなりで。許して。

・ふと思ったのが、「本」は基本、情報が一方通行で、作者から読者への片方向通信である。デジタルネイティブのゼット世代の身としてはレスポンスが鈍重なのは違和感がある…とは言わないが、ふと思った。「前時代の媒体なんだなあ」と。
そこから思考が飛んで、先日の友人との会話を思い出していた。
重要なのは話した内容ではなく話へのスタンスだ。
「自分が続きを話したいものの、現状相手が話しているので相槌以外打てずにただ話の切れ目を待つだけの時間」が発生していた。
相手の返答や発言はどうでもよくて、ただ自分が既に装填している結論の弾丸を何時打ち込むかということだけを意識する時間。
前々からこの時間があまり好きじゃなかった。
そもそもレスポンスや次にいう言葉を決め打ちしているのでリアルタイムの会話ではないし、相手の発言が自分の言いたいことに押されて右から左に抜けていく感覚がとても失礼に当たるような気がして本当に気が落ちる。

これってみんなもよくあるのだろうか。お互いに話題に向き合ってすらいない。キャッチボールはおろか、ドッチボールですらない。受け止めてないから。いうなれば会話のストラックアウトだ。お互いに構えてないところにご自慢の剛速球をバンバン投げ込んでいる。当然球はぶつかってるんだけどその箇所には神経を張り巡らせていないので無反応。ただ投げた側の印象として、「相手にあたったな」という結果だけが残る。

会話ってそんなんでいいのかも。昔読んだ生贄のジレンマという小説で、「人はランダムに反応を返すコンピューター相手にでも心が通じ合ったと思い込むことができる」という一節を読んだ。
要するに会話ができていると感じるかどうかは当人次第なのだ。相手の役割が大きいにもかかわらず、自分の主観だけで片付けることができる。相手を動かすための作業指示なら問題だが、主張をぶつけあうだけの集団所信表明会場みたいな状態では別に聞き手はそこまで重要じゃないのかもしれない。

ぼんやりとAIは心をもつことはできない!人間の心の動きを理解していない!という主張にまで思考が滑っていく。この時もずっと恐山氏の日記を手に持ったまま。目の前の文字を追いはするけど理解はせず、思考だけが巡っていく。
AIが理解したかどうかは重要じゃないし、何なら人間同士ですら理解できたかの証明はできないだろう。哲学的ゾンビの問題に近い気がする。多くの人の言う「思いやり」だとか「優しさ」「真心」とは行動でしか確認できないブラックボックスなのだ。
と、思ったところで13:30。慌てて本を閉じて駅に向かった。

--☆☆☆--
ここまでおおよそ30分程度。
1500文字ならそこそこかけた方かな…相場がつかめない。
毎日500文字でいいので書くことを意識しながら生きていこうと感じたので、急遽ところどころが錆びかかって、ハンドル部分のゴムが加水分解してベトベトになっているアカウントを引っ張り出してこの文章を打ち込んでいる。昔取った杵柄だと思ってやってみることにする。

おわり


金額に応じて私の生活の質が上がります