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要害山城(山梨県甲府市)の登城の前に知っておきたい歴史・地理・文化ガイド #DJ036

要害山城(山梨県甲府市)を起点にした旅行を満足度の高いものにするために、歴史を中心に詳しくまとめました。

このガイドでは、

  • 要害山城の歴史(築城の背景、武田信玄との関わり、戦国時代での役割)

  • 城の構造と遺構(縄張り、現存する遺構、見どころ)

  • 戦国時代の関連エピソード(城の攻防戦、戦略的な役割)

  • 周辺の歴史的観光スポット(甲府城、武田神社など、要害山城と関連のある場所)

これらの点を詳しくまとめ、歴史好きの旅行者が要害山城を訪れる前に知っておくとより楽しめる情報を提供します。

1. 要害山城の歴史

築城の背景

要害山城は戦国大名・武田氏の居城であった躑躅ヶ崎館(現在の武田神社)の防衛を目的に築かれた山城です。築城者は武田信玄の父である武田信虎で、永正17年(1520年)に甲府盆地北部の標高約770mの要害山に築城されました (要害山城 - Wikipedia)。信虎はそれ以前に館を現在の甲府市古府中町(武田氏館=躑躅ヶ崎館)へ移していましたが、この館は堀に囲まれた館とはいえ籠城には不向きでした (Yōgaiyama Castle - Wikipedia)。そこで館の北方約2kmに位置する要害山に詰めの城(緊急時の避難城)として要害山城が築かれ、木造の柵や土塁を巡らせ、山頂には狼煙(のろし)台(烽火台)も設けられました (Yōgaiyama Castle - Wikipedia)。このように要害山城は、平時の居館を補完し有事に最後の拠り所となる防衛拠点として位置づけられていました。

武田信玄との関わり

要害山城は武田信玄ゆかりの城としても知られています。大永元年(1521年)に今川軍が甲斐へ侵攻した際、信虎の正室・大井夫人(信玄の母)は戦火を避けて要害山城へ退避しました (要害山城 - Wikipedia)。ちょうどその最中の11月3日、大井夫人は城中(または麓の積翠寺)で男子(のちの武田信玄)を出産したと伝えられています (要害山城 - Wikipedia) (積翠寺/山梨の歴史を旅するサイト)。この出来事から要害山城は「武田信玄生誕の地」として語られており、城跡の主郭には後年「武田信玄公誕生之地」の石碑も建立されています (要害山城 - Wikipedia)。信玄自身は成長後、躑躅ヶ崎館を本拠とし各地へ出陣しましたが、要害山城も引き続き武田家の重要な支城として機能し、城番が置かれて維持されました (要害山城 - Wikipedia)。

戦国時代における城の役割

戦国期、要害山城は甲斐国における戦略的拠点として重要な役割を果たしました。甲府盆地を見渡す要衝の地にあり、館の背後を固める詰城として防衛ラインの一角を担っていたのです。実際に要害山城は有事の避難所・最後の砦と位置づけられ、武田氏は外敵の侵入に備えてこの山城を活用しました (128.Yogaiyama Castle Part1 – 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins) ) (Yōgaiyama Castle - Wikipedia)。城からは狼煙を上げて本拠や周辺支城へ緊急時の合図を送ることができ、要害山城そのものが堅固な天然の要塞でもありました。武田信玄の子・勝頼の代には、天正4年(1576年)に要害山城の大規模な改修が行われており (要害山城 - Wikipedia)、織田・徳川勢力との緊張が高まる中で防御力の強化が図られたと考えられます。その後、天正10年(1582年)に織田信長による武田討伐が行われ武田氏は滅亡しますが、要害山城は大きな戦火にさらされることはなく落城を免れました。武田氏滅亡後は徳川氏、次いで豊臣方の加藤光泰が城主となり改修を施しましたが (要害山城 - Wikipedia)、関ヶ原合戦後の慶長5年(1600年)に甲斐を再領有した徳川氏によって要害山城は廃城とされ、その役割を終えました (Yōgaiyama Castle - Wikipedia)。

2. 城の構造と遺構

縄張りの特徴

要害山城は典型的な山城で、急峻な山稜に沿って巧みに築かれています。その縄張りは尾根伝いに大小の曲輪(くるわ)=テラス状の郭を連続させた構造で、約20基以上の曲輪が段階状に配置されています (Yōgaiyama Castle - Wikipedia)。山道(登城路)は主郭に一直線には至らず、ジグザグに曲輪間を迂回しながら登る設計になっており、これにより攻城側は常に上方の曲輪から側面攻撃を受けやすく、防御側に有利な構造となっています (Yōgaiyama Castle - Wikipedia)。山頂部の主郭(本丸)は約80m×30mの長方形の平地で、土塁で囲まれ、東西に虎口(出入口)が設けられていました (Yōgaiyama Castle - Wikipedia)。城全体の規模は長さ500m以上に及び、山の地形を最大限に活かした堅固な造りでした。また要害山城の東側には支城「熊城」(くまじょう)も築かれており、連続した竪堀や登り石垣状の遺構を備えて要害山城の側面防御を補強していました (要害山城 - Wikipedia)。

現存する遺構

要害山城は現在、国の史跡に指定されており、中世山城の遺構が良好な形で残っています。主な遺構として、尾根を断ち切る堀切や斜面に沿って掘られた竪堀といった空堀群、土塁(盛土の防壁)、虎口跡(枡形門跡)、井戸跡、複数の曲輪跡、そして石積みの石垣などが確認できます (要害山城 - Wikipedia) (要害山城 - Wikipedia)。とりわけ要所を固める石垣が当時のままほぼ完全な形で遺存しており、戦国大名である武田氏の築城技術や中世の城郭の姿を現代に伝えています (要害山城 - Wikipedia)。遺構の保存状態の高さから、要害山城は「武田氏の居城跡および中世城郭遺跡」として学術的価値が認められ、平成3年(1991年)に「要害山」の名称で国の史跡に指定されています (要害山城 - Wikipedia)。2017年には続日本100名城(128番)にも選定されており (要害山城 - Wikipedia)、歴史ファンにも注目される城跡となっています。

現在の城跡の見どころ

要害山城跡は登山道が整備されており、比較的短時間で歴史遺構を見学することができます。麓の積翠寺や武田神社側から登城ルートがあり、登山口には解説板が設置されています (要害山城 - Wikipedia)。山道沿いには曲輪や土塁、門跡など主要な遺構に案内板が立てられており、往時の城の構造を想像しながら散策できるようになっています (要害山城 - Wikipedia)。山頂の本丸跡に到達すると、現在は樹木に囲まれ眺望は限定的ですが、そこに建つ「武田信玄公誕生之地」の碑が訪れる人々を出迎えます (要害山城 - Wikipedia)。この石碑は明治時代に海軍大将東郷平八郎の揮毫により建立されたもので、信玄生誕の地としての要害山城を後世に伝える象徴です (要害山城 - Wikipedia)。また本丸近くには武田不動尊と呼ばれる石仏も祀られており、江戸時代後期に武田家の遺徳をしのんで建立されたものです (Mt. Yogaizan Castle Ruins|Find things to do in Kofu|Visit Kofu - Official Tourism Website for Kofu city)。城跡までの道中で戦国ロマンを感じ、遺構を直に見ることで、当時の攻防に思いを馳せることができるでしょう。

3. 戦国時代の関連エピソード

甲斐の国の戦略的拠点としての役割

要害山城は、戦国時代を通じて甲斐の国における要塞ネットワークの中核の一つでした。武田信虎・信玄父子は、甲斐国内の有力国人衆を従え領国統一を進める中で、本拠となる館とそれを守る山城を整備しました (128.Yogaiyama Castle Part1 – 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins) )。要害山城はその象徴的存在であり、盆地中央の甲府に築かれた館(躑躅ヶ崎館)を敵の攻撃から守る盾の役割を果たしました。周囲の山城や砦と連携し、甲斐国への侵入路を監視・防御する拠点でもあったのです。例えば、要害山城の山頂の狼煙台から発せられる合図は、周辺の城砦へ瞬時に伝達され、非常時には武田家中に緊急動員を促す仕組みとなっていました (Yōgaiyama Castle - Wikipedia)。このように要害山城は、武田家の「防衛線」の一角として平時から戦時まで重要な抑えの城であり続けたのです。

攻防戦や歴史的事件の記録

要害山城が歴史の表舞台に現れる有名な出来事としては、大永元年(1521年)の今川氏との戦い(飯田河原合戦)が挙げられます。駿河の今川氏親の軍勢1万5千余りが甲斐に侵攻し、甲府の飯田河原で武田信虎軍2千と激突しました (つつじが崎の館の北に位置する「積翠寺」。信玄公生誕の地との言い伝えもある寺。 » HKPツアーズ)。この緊迫した状況下で、信虎は妊娠中の正室・大井夫人を要害山城へ避難させ、自らは寡兵で出陣します (つつじが崎の館の北に位置する「積翠寺」。信玄公生誕の地との言い伝えもある寺。 » HKPツアーズ)。劣勢が予想された武田軍でしたが、地の利を得た戦いぶりで今川軍を撃退し、結果的に武田氏の甲斐統一を揺るぎないものとしました (128.Yogaiyama Castle Part1 – 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins) )。信虎は合戦の勝利を大いに喜び、ちょうど前日に生まれた嫡男に「勝千代」(のちの信玄)と名付けたと伝えられています (Yōgaiyama Castle - Wikipedia)。この合戦は要害山城が実戦で威力を発揮した象徴的なエピソードであり、居館と山城の連携による防衛戦略の成功例でした (128.Yogaiyama Castle Part1 – 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins) )。

その後、武田信玄の治世下で要害山城が直接戦火に晒された記録は多くありません。信玄期の甲斐は周辺諸国への積極的な攻勢もあって敵軍が甲府に迫る事態は少なく、要害山城は抑止力・備えとしての役割を担っていたと考えられます。信玄没後、跡を継いだ勝頼は天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗を喫すると、防御体制の見直しを迫られました。その一環として翌天正4年(1576年)に要害山城の大改修が実施され、石垣の増強など防御力向上が図られました (要害山城 - Wikipedia)。しかし皮肉にも、その数年後の天正10年(1582年)に織田信長の侵攻によって武田氏は滅亡し、要害山城が活躍する機会は訪れませんでした。武田勝頼自身は要害山城ではなく新府城(韮崎市)へ退避を図りましたが逃れきれず、自刃して果てています。要害山城は武田氏滅亡後、徳川家康配下の秋山氏らが一時城代となった後、豊臣方の加藤光泰に引き継がれました (Yōgaiyama Castle - Wikipedia)。加藤光泰は在城中に近世的な縄張りへの改修を行い、現在見る石垣の一部は加藤時代の穴太積み(自然石を積み上げた石垣)とされています (要害山城 - Wikipedia)。しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後に甲斐を支配した徳川氏は、新たに甲府城を築いて統治拠点を移したため (Yōgaiyama Castle - Wikipedia)、要害山城は廃城処分となりました。このように要害山城は戦国時代の始まりから終焉まで武田家と運命を共にし、その興亡の歴史を今に伝えています。

4. 周辺の歴史的観光スポット

甲府城(舞鶴城公園)

甲府城は要害山城と同じ甲府市内にあり、要害山城の廃城後に築かれた近世城郭です。武田氏滅亡後、甲斐国を領した徳川家康や豊臣方の加藤氏により城下町甲府の中心部に石垣造りの城が築かれました (Yōgaiyama Castle - Wikipedia)。現在の甲府城は「舞鶴城公園」として整備されており、天守台や石垣、門の復元などが見どころです。要害山城が山上の中世城郭であったのに対し、甲府城は平地に築かれた近世城郭であり、両者を比較することで城郭の移り変わりを学ぶことができます。また、要害山城との関連では、関ヶ原後に甲府城が築かれたことで要害山城が役目を終えたという歴史的経緯があり、新旧の城跡をセットで訪ねるのも興味深いでしょう (Yōgaiyama Castle - Wikipedia)。

武田神社(躑躅ヶ崎館跡)

武田神社は武田信玄を御祭神として祀る神社で、甲府市古府中町にあります。ここは戦国期に武田氏の館(躑躅ヶ崎館)があった場所で、武田信虎・信玄父子が本拠とした屋敷跡です (Mt. Yogaizan Castle Ruins|Find things to do in Kofu|Visit Kofu - Official Tourism Website for Kofu city)。要害山城はこの躑躅ヶ崎館を守る詰めの城として築かれた経緯があり、両者は一体の防衛拠点でした (要害山城 - Wikipedia)。現在、武田神社の境内には館跡の土塁や空堀、水堀の一部が残されており、往時の面影を偲ぶことができます。また宝物殿には武田家ゆかりの品々が展示され、信玄公の軍扇や武具などを見ることができます。要害山城を訪れる前後に武田神社にも足を延ばせば、館と山城の位置関係や役割分担を実感でき、武田家の歴史をより立体的に感じられるでしょう。

その他のゆかりの史跡

要害山城と関わりの深い周辺スポットとして、麓にある積翠寺(せきすいじ)が挙げられます。積翠寺は要害山の中腹に建つ古刹で、伝承では大井夫人が信玄公を出産したのはこの寺の一室であったともいわれます (積翠寺/山梨の歴史を旅するサイト)。寺の境内には信玄公の産湯に使われたという井戸(産湯の井戸)や産湯天神が残されており、誕生伝説にまつわる史跡となっています (積翠寺/山梨の歴史を旅するサイト)。また、寺の裏手には要害山城への登山道入口があり、戦国乱世で産声を上げた若き日の信玄公に思いを馳せながら城跡へと向かうことができます。さらに甲府市内には、信玄公ゆかりの恵林寺(武田信玄の菩提寺、墓所がある寺)や、信玄公隠し湯の伝説が残る湯村温泉などのスポットも存在します (信玄公のまち 古府を歩く|今も残る史跡 - 甲府市) (信玄公のまち 古府を歩く|今も残る史跡 - 甲府市)。時間があればこれらも巡ることで、武田氏と甲斐の歴史への理解が一層深まるでしょう。

要害山城の歴史的背景を知った上で現地を訪れれば、遺構の一つ一つにも物語が感じられ、旅の満足度は格段に高まるはずです。戦国の世に思いを巡らせながら、甲斐の山城探索を存分にお楽しみください。

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