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水城(福岡県太宰府市)の登城の前に知っておきたい歴史・地理・文化ガイド #DJ086

水城(福岡県太宰府市)を起点とした観光体験を満足したものにするために、事前にしっておきたい歴史、地理、文化の情報をまとめました。

  • 水城の歴史的背景(築城の目的、古代防衛施設としての役割など)

  • 地理・地形的特徴(立地、構造、現存遺構の見どころなど)

  • 文化・伝統(太宰府との関係、神社仏閣、特産品や郷土料理など)

  • 周辺観光スポット(太宰府天満宮、歴史博物館、温泉などの見どころ)

  • アクセス情報(公共交通機関、車でのアクセス、駐車場情報)

水城を訪れる際にご活用ください。


1. 歴史的背景

築城の目的と経緯: 水城(みずき)は7世紀後半、古代日本が朝鮮半島での敗戦を受けて築いた大規模な防衛施設です。西暦663年、日本(当時の倭国)と同盟国の百済の軍勢が「白村江の戦い」で唐・新羅の連合軍に大敗しました​。この敗戦によって唐・新羅軍が日本本土へ侵攻してくることが懸念されたため、翌年の天智天皇3年(664年)に急遽防衛体制が整えられました。

『日本書紀』によれば、この年に対馬や筑紫(北部九州)一帯に防人(さきもり)と烽火(のろし)を配置し、さらに「大堤を築きて水を貯へしむ。名けて水城と曰ふ(大きな土手を築いて水をたたえた。これを水城と呼ぶ)」と記されています​。city.onojo.fukuoka.jp

すなわち、太宰府の防衛のために現在の水城が築造されたことが記録されているのです。この水城は巨大な土塁と堀からなる防壁で、敵の侵入を水と土で食い止める構造でした。築造の指揮を執ったのは当時政権を握っていた中大兄皇子(のちの天智天皇)とされ、わずか数ヶ月という短期間で完成させたとも言われます。

古代防衛施設としての役割: 水城は、大宰府(だざいふ)という古代九州の行政・軍事拠点を守る要塞として機能しました。位置的には、博多湾から内陸の筑紫平野を経て太宰府へ向かう要路を塞ぐ形で築かれており、外敵が博多方面から南下してくるのを物理的に遮断する役目を果たしました​。

白村江敗戦直後に築かれたこの「水城」を最前線とし、翌年には背後の四王寺山(しおうじやま)山頂に大野城(おおのじょう)、基山(きやま)山上に基肄城(きいじょう)などの山城も築かれており、水城とあわせて太宰府を守る防衛ラインを形成しました​。

これらの城砦群は、唐・新羅からの襲来に備えた国家総力の防御体制でしたが、幸いにも大規模な外敵侵攻は実際には起こらず、水城が実戦で使われることはなかったようです。その後、水城は時代とともに軍事施設としての機能を失い、次第に土塁の遺構だけが残る形となりました。しかし古代の記録や物語の中で水城はたびたび言及され、太宰府の「門」として認識されていました​。

関連する歴史的事件: 水城の築造と深く関わるのが前述の白村江の戦いです。白村江(はくそんこう、朝鮮半島・白村江での戦い)は663年に発生し、日本側が大敗を喫した歴史的事件でした。この敗戦により、日本は唐・新羅の報復や侵攻を強く警戒することになりました​。

水城築造はまさにその危機感の産物であり、日本初の本格的な対外防衛施設と言えます。また、水城築造と同じ時期に、朝廷は亡くなった将兵の霊を弔うため九州に寺院を建立する計画も立てました。これは後に観世音寺(かんぜおんじ)という寺院として結実し、太宰府に残る古代寺院の一つとなっています(観世音寺については後述)​。

さらに水城完成から約250年後の延長5年(927年)編纂の『延喜式』には、水城の維持管理についての規定も見られ、平安時代初期までその存在が意識され続けていたことが伺えます。鎌倉時代には元寇(蒙古襲来、1274年)の際に古い土塁として再認識され、防塁の一部に利用されたともいわれます​。このように水城は、古代日本が直面した対外危機と防衛策を今に伝える貴重な歴史遺産なのです。

2. 地理・地形的特徴

立地と地理的条件: 水城跡は福岡県太宰府市と大野城市、春日市の境界付近に位置し、筑紫平野の南端、四王寺山(大野城のある山)と牛頸(うしくび)丘陵という二つの高地に挟まれた狭い谷口を塞ぐ形で築かれています​。北側には博多湾へと続く福岡平野が開け、南側には太宰府政庁のあった盆地が広がっています。

この立地条件から、水城はまさに北部九州への関門として機能しました。現在見ることのできる水城跡は、東西約1.2kmにわたって伸びる巨大な土塁(どるい)です​。土塁の高さは平均して約8~10m、基底部の幅は約80mにもおよび、両側面には幅数十メートルの堀が付属していたと考えられています​。この堀には雨水や河川の水を引き入れて蓄える構造で、防御用の濠(みぞ)として機能しました。そのため「水を湛える城」という意味で「水城」と名付けられたのです​。

現存する遺構の特徴: 水城の遺構は現在、土塁の形状が良好に保存されており、そのスケールの大きさを目の当たりにすることができます。土塁上部はところどころ平坦になっており、遊歩道のようになっている部分もあります。遺構の東端と西端にはかつて東門西門と呼ばれる城門があり、太宰府への出入口となっていました​。

現在は門そのものは残っていませんが、東門跡・西門跡付近では地形がくぼんでいる箇所があり、発掘調査によって門の基礎や柱跡などが確認されています。また、水城の土塁内部からは古代の木樋(きどい:木製の水道管)が発見されており、これによって濠の水を調節していたことがわかっています。この木樋の出土は、『日本書紀』の記述通り水城が「水をたくわえた堤防」であったことを裏付ける貴重な発見です。

見どころと観光ルート: 水城跡は国の特別史跡に指定され、史跡公園のように整備されています。東門跡側(太宰府市側)には「水城館」(みずき館)と呼ばれる資料展示施設があり、建物自体が土塁をイメージしたデザインになっています​。

水城館の屋上は展望デッキになっており、周囲より一段高い視点から一直線に延びる水城土塁の全景を見渡すことができます​。ここでは水城の歴史や構造に関するパネル展示もあり、訪問前に知識を深めるのに最適です。西門跡側(大野城市側)には「水城ゆめ広場」と呼ばれるエリアが整備されていて、こちらにも駐車場や案内板が設置されています。 nishinomiyako.com

​ゆめ広場から西門跡に向かって土塁沿いの散策路が伸びており、水城の構造や立地を体感しながら歩けるようになっています​。東端から西端まで土塁に沿って散策すると約30分ほどですが、時間がない場合は主要部分のみの見学でも十分スケールを感じられるでしょう。

特におすすめの展望ポイントは、水城館の展望デッキと土塁上の遊歩道です。展望デッキからは土塁の全長や周囲の地形(背後の四王寺山や目前の平野)を俯瞰でき、水城が地形を巧みに利用して築かれている様子が実感できます​。一方、土塁上の道を歩けば、眼下に広がる北側平野と南側の太宰府方面を見比べることができ、自分が「古代の城壁」の上に立っていることを実感できるでしょう。

季節によっては土塁沿いに草花が茂り、春には桜やツツジが彩る景観も楽しめます。なお、遺構内は自由に見学できますが、史跡保護のため立ち入り禁止エリアや柵が設けられている箇所もあります。案内板の指示に従い、遺構を傷めないよう注意しながら散策しましょう。

3. 文化・伝統

太宰府との関係(防衛拠点としての役割): 水城は、古代の九州行政の中心地であった大宰府(太宰府)を守る防塁として築かれました。大宰府は7世紀後半以降、「遠の朝廷(とおのちょうてい)」とも称され、奈良・平安時代を通じて九州全域を統治し外交を司る重要拠点でした​。

外国からの使節や交易船は大宰府管轄の博多津(はかたつ)に上陸し、迎賓館である鴻臚館(こうろかん)や大宰府政庁に赴きますが、その大宰府の入口にあたる関門こそが水城の東門・西門でした。当時、都から大宰府に赴任した役人たちは水城の門をくぐって大宰府に入り、任期を終えて帰京する際には水城で見送りの人々と別れを惜しんだといいます​。

万葉集には大宰府長官で歌人でもあった大伴旅人(おおとものたびと)が、遊女・小紫(こむらさき)との別れの情景を水城で詠んだ歌が残されており、水城が古代人にとって「旅立ちと門出」の象徴であったことがうかがえます​。このように水城は単なる軍事施設に留まらず、大宰府の政治・文化と人の出会いと別れの舞台ともなっていたのです。

地域に根付いた歴史・伝統: 太宰府は古代から中世にかけて九州の中心として栄え、多くの歴史的遺産と伝統を育んできました。水城築造の翌世代には、前述の観世音寺が発願されました。観世音寺は天智天皇の発願によって創建が計画され、奈良時代の741年には「筑紫国分寺」として位置付けられた由緒ある寺院です​。

現在の本堂は後世の再建ですが、境内の鐘楼に吊るされた梵鐘(ぼんしょう)は飛鳥時代末期の製作で、日本最古の寺鐘として国宝に指定されています​(鋳造は7世紀末、天智天皇の勅により造られたと伝わります)。その深く澄んだ鐘の音色は「日本の音風景百選」にも選ばれており、古代の響きを今に伝えています​。

また観世音寺には多くの仏像や古瓦が保存されており、境内の宝蔵(博物館)では白鳳文化の遺品を見ることができます。水城から防衛された大宰府政庁跡や、その政庁と同時期に建てられた戒壇院(かいだんいん)跡なども周辺に残り、これらは現地で古代史を感じられるスポットとなっています。

中世以降の太宰府は、学問の神様として名高い菅原道真(すがわらのみちざね)公の左遷とゆかりの地として知られるようになります。道真公は延喜元年(901年)に大宰権帥として太宰府に赴任しましたが、実質的には京からの追放でした。彼はこの地で無念のうちに亡くなり、その御霊を祀るために創建されたのが太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)です。天満宮は道真公の死後5年目の延長5年(927年)に建立が始まり、以来「学問・至誠の神」を祀る神社として信仰を集めてきました。境内には道真公がこよなく愛した梅の木が数多く植えられ、現在では約6,000本もの梅が植樹されています​。

毎年2月から3月にかけて色とりどりの梅が一斉に開花し、その芳香があたり一帯に漂う様子は古来より和歌や故事に謳われてきました。また、天満宮の御神木「飛梅(とびうめ)」伝説は有名で、京の都に残した梅の木が道真公を慕って太宰府まで一夜にして飛んできたという逸話が残ります。この伝説にちなみ、太宰府では梅が特別な存在とされてきました。

神社仏閣と祭事: 太宰府天満宮では一年を通じて多くの祭典行事が行われますが、中でも9月の神幸式大祭(しんこうしきたいさい)は最も重要な祭りです。道真公の御神霊を乗せた御輿(みこし)が氏子地域を巡行する祭りで、その途中、水城と関わりの深いある場所に立ち寄る伝統があります。それは、道真公に梅ヶ枝餅を献上した老女・浄妙尼(じょうみょうに)を祀る浄妙尼神社です。御輿はまず浄妙尼の祠に立ち寄り、道真公に代わってお礼をするという神事が現在も受け継がれています​。dazaifu-bunka.or.jp

この逸話は、道真公と梅ヶ枝餅の伝説(後述)とも深く関わっており、地域に根付いた物語が今なお祭りとして息づいている好例と言えるでしょう。

特産品・郷土料理(梅ヶ枝餅など): 太宰府を訪れたらぜひ味わいたい名物が、香ばしい焼き餅の梅ヶ枝餅(うめがえもち)です。梅ヶ枝餅は、もち米とうるち米を混ぜた生地で粒あんを包み、梅の花の印を押して香ばしく焼き上げた御餅で、ほんのりとした甘さと焼き立ての香ばしさが魅力です​。

その名前や梅の刻印は道真公の故事に由来しています。伝説によれば、左遷され太宰府で貧しく寂しい生活を送っていた菅原道真公を不憫に思った近くの老女が、ある日、自宅で炊いた米の餅を梅の枝に刺して道真公にこっそり差し入れました​。飢えをしのいだ道真公は大いに喜び、この老女は「道真公の命の恩人」とまで称えられました。この時老女が差し入れた梅の枝付きの餅こそが梅ヶ枝餅の始まりと伝えられています​。

「梅ヶ枝餅」の名もここから来ており、現在でも毎月25日(道真公の命日)には特別に餅に本物の梅の枝を添えて頒布する風習が残ります。また、江戸時代に太宰府天満宮への参詣が盛んになると、門前町(参道)の土産物として梅ヶ枝餅が定着し、旅人たちにも広く愛されるようになりました​。umegaemochi.com

現在、太宰府天満宮の参道沿いには多くの梅ヶ枝餅屋が軒を連ね、焼きたてをその場で味わったり、お土産に持ち帰ることができます​。香ばしい匂いに誘われて食べ歩きするのも楽しみの一つでしょう。

この他、太宰府には梅を使ったお菓子や梅酒、地元野菜を使った郷土料理などもあります。また、博多名物の豚骨ラーメンの老舗が太宰府に出店していたり、抹茶スイーツの有名店があったりと、グルメ面でも充実しています。古都の風情を楽しみながら、ぜひ当地ならではの味を堪能してください。

4. 周辺の観光スポット

水城跡の周辺には、歴史や文化を楽しめる観光スポットが数多くあります。太宰府観光をより充実させるために、以下のような名所にも足を延ばしてみましょう。

  • 太宰府天満宮 – 菅原道真公を祀る全国屈指の天神さまの総本宮です。学業成就の神様として受験生をはじめ年間約1,000万人もの参拝者が訪れます。境内は季節ごとの自然美でも有名で、特に早春には約6,000本もの梅の花が咲き誇り​、初夏には花菖蒲、秋には紅葉、冬には椿と一年中見どころがあります。

    朱塗りの太鼓橋を渡り、楼門をくぐって広がる荘厳な社殿周辺には、御神木の飛梅や樟(くすのき)の巨木がそびえ、歴史の重みと神聖な空気を感じられるでしょう。参道には土産物店や飲食店が建ち並び、名物の梅ヶ枝餅や梅酒、焼きカレーなどの食べ歩きも楽しめます​。毎年正月三が日や受験シーズンには大変混雑するため、ゆっくり参拝したい場合は平日や午前中の早い時間帯が狙い目です。

    1. japan.travel

  • 九州国立博物館 – 太宰府天満宮の裏手の丘陵にある、近代的な建築が目を引く大型博物館です。2005年に開館した日本で4番目の国立博物館で、日本文化の形成をアジア史的観点から捉えるというコンセプトを掲げています​

    1. gov-online.go.jp

  • 太宰府政庁跡 – 大宰府の政治の中心だった「遠の朝廷」の遺構で、水城が守り抜くはずだった古代官衙跡です。7世紀後半から平安時代末まで九州を治めた政庁の跡地には、現在建物こそ残っていませんが、礎石が当時の建物配置に沿って整然と並べられています​

    1. dazaifu.org

  • 観世音寺 – 前述のとおり飛鳥~奈良時代創建の古刹で、大宰府の鎮護国家・追善供養の寺院として栄えました。境内には奈良時代建立の金堂(現在は収蔵庫)や講堂跡が残り、往時の伽藍配置を偲ぶことができます。中でも有名なのが観世音寺の梵鐘で、その大きさと美しい音色で知られます。この梵鐘は白鳳期(7世紀末)に天智天皇の命で鋳造されたもので、日本最古の鐘として国宝に指定されています​

    1. crossroadfukuoka.jp

  • 坂本八幡宮 – 太宰府政庁跡の近くに鎮座する古社で、2019年に公布された新元号「令和」ゆかりの地として注目を集めました。万葉集に収録された「梅花の宴」の序文が詠まれた大伴旅人の邸宅跡がこの付近とされ、その縁で令和の出典となった歌の碑などが境内に建てられています。静かな杜の中にあり、旅人が見上げたであろう坂本の梅を偲びつつ散策できます。

  • 二日市温泉 – 太宰府からほど近い筑紫野市(二日市地区)に湧く温泉で、1300年以上の歴史を誇ります。万葉集にもその名が詠まれ、大宰府の役人や僧たちも疲れを癒やしに浸かったと伝えられています​

    1. nishinomiyako.com

  • 宝満山(ほうまんざん)・竈門神社 – 太宰府市街の東にそびえる標高829mの霊峰・宝満山は、古くから山岳信仰の対象であり、多くの修験者や登山者が訪れます。麓にある竈門神社(かまどじんじゃ)は縁結びの神様として人気で、春は桜や夫婦杉、秋は紅葉の名所です。山頂までは初心者向けハイキングコースが整備され、約2時間ほどで登頂できます。山頂からの眺望は素晴らしく、晴れた日には眼下に太宰府市街や福岡平野、遠く博多湾まで見渡せます​

    1. nishinomiyako.com

  • 体験型観光プログラム – 太宰府では歴史や文化に触れるさまざまな体験メニューも用意されています。例えば、太宰府天満宮の門前町では梅ヶ枝餅づくり体験ができるプログラムがあります。地元の餅店や観光企画によって、不定期ながら観光客向けに餅の成形や焼き工程を体験させてくれるイベントが開催されています​

    1. fflc.ac.jp

5. アクセス情報

公共交通機関での行き方: 水城へは公共交通でも比較的アクセスしやすくなっています。福岡市内から太宰府方面へ向かう場合、一般的なのは西鉄電車の利用です。西鉄福岡(天神)駅から西鉄天神大牟田線に乗り、二日市駅で太宰府線に乗り換えて約5分、「都府楼前(とふろうまえ)駅」で下車します。都府楼前駅から水城跡の東門エリアまでは徒歩約20分ほどです​。

歩くとやや距離がありますが、途中には太宰府政庁跡や坂本八幡宮などもあり、散策しながら向かうこともできます。徒歩を避けたい場合は、西鉄太宰府駅または都府楼前駅からコミュニティバス(まほろば号)を利用すると便利です。太宰府市のコミュニティバスは主要観光地を巡回しており、「水城跡東門」バス停で下車すれば目の前が水城館と土塁の東端です​。太宰府駅からバスで15分程度、1時間に1〜2本の運行です。

また、JRを利用する場合は、博多駅から鹿児島本線で二日市駅の一つ手前にある「水城駅」で下車する方法もあります。水城駅は遺構の北側近くに位置し、駅から南に徒歩15分ほどで水城西門エリアに到達します(駅前にバスはありませんが、住宅街を抜けると土塁が見えてきます)​。

JR利用は本数も多く所要約15分と速いですが、駅から案内表示が少ないため地図アプリなどでルートを確認すると良いでしょう。なお、西鉄太宰府駅から水城跡までは約3km離れているため、タクシーを利用すれば10分程度で到着できます。太宰府天満宮前のタクシー乗り場から乗車し「水城跡まで」と伝えれば、東門側の水城館まで連れて行ってくれるでしょう。

車でのアクセスや駐車場情報: 自家用車で行く場合、福岡市中心部からは都市高速・九州自動車道経由で太宰府ICまで約30分、その後一般道で10分ほどです。太宰府ICを降りたら県道112号線(旧太宰府線)を西方面へ進み、「水城」交差点付近が水城跡になります。遺構の東西それぞれに無料の駐車場が整備されています​。東門側は水城館の駐車場(数台~十数台規模)、西門側は水城ゆめ広場の駐車場が利用できます​。

休日は満車になることもありますが、その場合でも周辺にコインパーキングが点在していますので表示に従って駐車してください。なお、太宰府天満宮周辺は観光客で車が渋滞しやすいため、水城と天満宮を両方訪れる計画であれば、先に水城に立ち寄ってから太宰府市街地に向かうほうがスムーズです。

移動のコツや所要時間: 太宰府エリアの観光は見どころがコンパクトにまとまっているため、工夫すれば日帰りでも複数箇所を巡ることができます。ただし、水城跡だけは天満宮周辺から少し離れているため、移動手段と順路を考慮すると効率的です。

例えば午前中に福岡市を出発し、まず水城跡を見学、その後太宰府天満宮と門前町で昼食、午後に九州国立博物館と政庁跡を巡るというコースであれば無理なく回れるでしょう。水城の見学自体は土塁を歩いて片道15分、往復や説明閲覧を含めて30~40分もあれば十分ですが、史跡好きでじっくり見る方は1時間ほどみても良いでしょう。

夏場は日差しを遮るものが少ないため、帽子や飲料水を用意するなど熱中症対策をしてください。逆に草木が枯れる冬場は見通しが良くなり土塁の形状がはっきりわかる利点があります。天満宮や博物館は観光客で混み合う時間帯がありますので、先に屋外型の水城や政庁跡を見てから屋内施設に移動すると快適です。また、太宰府駅周辺にはロッカーや休憩所もありますので、歩き回って疲れたら適宜休息を取りましょう。

全体として太宰府は福岡市内からのアクセスも良く、公共交通でも車でも訪れやすい観光地です。事前に歴史背景を頭に入れて訪れれば、水城をはじめとする古代遺跡がきっと旅を一層豊かなものにしてくれるでしょう。古代から令和に至る歴史薫る太宰府の地で、充実した旅の体験をお楽しみください。​

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