第55回定例会「元任天堂・上村雅之氏の功績を振り返る」を開催しました。
1月19日、第55回定例会「元任天堂・上村雅之氏の功績を振り返る」を開催しました。講師は元日経エレクトロニクス記者、現・株式会社ビットメディア代表取締役の高野雅晴さんです。
2021年12月、元任天堂開発第二部長で、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授の上村雅之さんが亡くなられました。
高野さんは日経エレクトロニクス在籍時の1988年から90年代前半にかけて、上村氏を中心とする任天堂の開発陣に取材を重ね、1994〜95年にその成果を連載記事「ファミコンはこうして生まれた」にまとめました(現在は日経クロステックにて公開中)。
今回の定例会では当時の高野さんが取材した上村さんにまつわるエピソードを振り返りつつ、上村さんとともにファミコンの開発にあたった技術者たちを紹介し、20世紀、とくに70〜80〜90年代において任天堂が何を考えていたかをたどりました。
「ファミコン開発の父」として知られる上村さんですが、もともとはシャープ(早川電機)に在籍していて、任天堂が70年代に展開していた「光線銃」のセンサーとなる太陽電池の担当でした。やがて上村さんは横井さんに引き抜かれる形で任天堂に入社します。
高野さんが取材を始めた頃にはすでに横井軍平さん率いる開発第一部と上村さん率いる開発第二部の体制ができあがっており、それぞれ時にライバルとして、時に利益・人材の両面でフォローし合いながら「カラーテレビゲーム6」「カラーテレビゲーム15」、「ブロック崩し」、「ゲーム&ウォッチ」、「ドンキーコング」、そして「ファミリーコンピュータ」などの製品を開発していきました。
個々の製品の具体的なエピソードについては、高野さんの記事をもとに構成されたこちらの動画に紹介されています。
ここで上村さんの功績として注目したいのは、若手を三菱電機に派遣して半導体の基礎を学ばせ、ゲームアイデアスケッチから回路図、LSIのパターンまで描けるエンジニアに育てたことや、当時日本では馴染みの薄かった6502というCPUに詳しい新入社員をいち早く登用したことなどの、教育的側面でした。
何かにつけ横井さんと比較される上村さん。ぐいぐい引っ張る派手さはないものの、多くの若手の力を引き出してまとめる調整型のリーダーでした。その能力は任天堂を定年退職後、立命館大学の教授となって以降、教育者としても存分に発揮されたといいます。
今回は開発者としての上村さんのエピソードを紹介しましたが、教育者としての上村さんについても、親交のあった方からまたお話をうかがう機会があればと思います。
デジタル・エンターティメント研究会では、このような勉強会を、1〜2か月に一度さまざまなテーマで開催しています。ご関心を持たれた方は当会のFacebookページで開催情報をお知らせしていますので、ご参照ください。
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