ウクライナの画家で、理論家カジミール・マレーヴィチが生まれた。
ArtDailyは2022年02月23日に、現在のウクライナ、元ロシアの画家で、アート理論家であったカジミール・セヴェリーノヴィチ・マレーヴィチ(Казимир Северинович Малевич/Kazimir Severinovich Malevich/Kazimir Malevich/1879 - 1935)が、ポーランドの分割統治時代にロシア帝国時代のキエフ(Kiev)総督府の近くキエフ近郊にて、他の多くのポーランド人と同様にポーランド系ローマカトリック教徒であった父親セウェリン・マレーヴィチ(Северин Малевич/Seweryn Malewicz/? - ?)と母親ルドウィカ・マレーヴィチ(Людвика Малевич/Ludwika Malewicz/? - ?)の子として、1878年02月23日に生まれたと報告した。
彼らはともに、1863年に起きたポーランドの1月蜂起の失敗の余波で、イギリス連邦(現在のベラルーシのコピール地方/Kopyl Region of Belarus)の旧東方領土からキエフに逃れてきた。
両親はポーランド人で、マレーヴィチはウクライナ語で話し、ポーランド語で書き、後に習得したロシア語で活動を行っていたと言われている。
マレーヴィチは後に、ウクライナ語で芸術についての一連の記事を書くことになる。
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カジミールの父親は製糖工場を経営していた。
マレーヴィチには14人の子供たちが居て、カジミールは、その最初の子供であった。
ただし、そのうち成人まで生き残ったのは9人だけであった。
カジミールの家族は頻繁に引っ越しを繰り返し、カジミールは幼少期の大半を、文化の中心地から遠く離れた、砂糖ビーツのプランテーションに囲まれた現代ウクライナの村々で過ごした。
彼は12歳になるまで、プロの芸術家のことを何も知らなかったが、幼少期には芸術に囲まれていた。彼は農民の刺繍や、壁やストーブの装飾を楽しんでいた。
彼は農民のスタイルで絵を描くことができた。1895年から1896年までキエフでデッサンを学んだ。
1896年から1904年まで、カジミール・マレーヴィチはクルスク(Kursk)に住んでいた。
しかし、1904年に父親の死去した後、モスクワに移住した。
1904年から1910年までモスクワ絵画・彫刻・建築学校(the Moscow School of Painting, Sculpture, and Architecture)で学び、モスクワのフェドール・レルベリのアトリエ(the studio of Fedor Rerberg in Moscow)で学んだ。
1911年、サンクトペテルブルク(St. Petersburg)で開催された第2回ソユーズ・モロヨージ展(Soyuz Molodyozhi/Union of Youth)にウラジーミル・タトリン(Vladimir Tatlin)とともに参加し、1912年には第3回ソユーズ・モロヨージ展を開催し、アレクサンドラ・エクスター(Aleksandra Ekster)、ウラジーミル・タトリンらの作品を展示した。
また、1912年にモスクワで開催された集団「ロバのしっぽ(Donkey's Tail in Moscow)」展に参加した。
この頃には、ロシアの前衛画家ナタリア・ゴンチャロヴァ(Natalia Goncharova)やミハイル・ラリオノフ(Mikhail Larionov)の影響を受けており、特にルボック(lubok)と呼ばれるロシアの民芸品に興味を持っていた。
マレーヴィッチは、1912年に自らを「キュボ・フューチュリスト(Cubo-Futurist)」のスタイルで描いていると評し、色彩を多用しプリミティブな要素を持つ「立体=未来派(Кубо-Футуризм/Cubo-Futurism/クボ・フトゥリズム/立体未来主義)」と呼ばれる傾向の作品を制作して、その後の1910年代半ばに作風は一転し、無対象を主義とする「シュプレマティスム(Супрематизм/Suprématisme/絶対主義)」を主張し、抽象性を徹底した絵画の一形態に達した。 1913年03月にはモスクワでアリスタルク・レントゥロフ(Aristarkh Lentulov)の絵画の大規模な展覧会が開かれた。
この展覧会は、マレーヴィチを含む当時のロシアの主要な前衛芸術家はみなすぐにキュビズムの原理を吸収し、作品に使用し始めた。
1913年にはすでに、マレーヴィチの舞台装置を用いたキュビズム・フューチュリストのオペラ『太陽の上の勝利(Victory Over the Sun)』が大成功を収めた。
1914年には、マレーヴィチは、アレクサンドル・アルキペンコ(Alexander Archipenko)、ソニア・ドローネ(Sonia Delaunay)、アレクサンドラ・エクスター(Aleksandra Ekster)、ヴァディム・メラー(Vadim Meller)らとともに、パリのサロン・オブ・インディペンダン(Salon des Indépendants in Paris)に作品を出品している。
さらに1914年、ロシアの第一次世界大戦への参戦を支援するために、一連のリトグラフを制作した。
これらの版画は、ウラジーミル・マヤコフスキー(Vladimir Mayakovsky)のキャプション付きで、モスクワを拠点とする出版社『Segodniashnii Lubok(Contemporary Lubok)』から出版され、一方では伝統的な民芸品の影響を示しているが、他方では、彼のシュプレマチストの作品(Suprematist work)を先取りしたような構成的に喚起的な方法で並置された純粋な色の固まりが特徴が見られる
これらは、同時期のロシア構成主義やのちのバウハウスにも大きな影響を与えた。
彼は、幾何学的抽象芸術(geometric abstract art)のパイオニアとして、前衛的絶対主義活動(the avant-garde Suprematist movement)の発信者で、戦前に抽象絵画を手掛けた最初の人物であった。
また、彼は、アーティストの中心的な仕事が、スピリチュアルな感覚を与えると信じ、信心深いキリスト教神秘主義者でもあった。
今回公開された絵は、カジミール・マレーヴィチにより、1908年または1910年-1911年に描かれた自画像である。
作品は、27x26.8の紙に、グワッシュで描かれている。
キエフ(Kiev/Київ/Kijów/Киев)の緯度、経度。
50°27'00.4"N 30°31'24.2"E
または、
50.450100, 30.523400
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