「キリスト磔刑の現場」に新説。学会を仰天させたある考古学者の提言。
Forbes JAPANは2024年04月04日に、エルサレム南部のアパートが立ち並ぶ閑静な住宅街の奥深くに、縦・横5マスの何の変哲もないコンクリート板がある。この板は芝生や他の植物に囲まれて、小高い庭園やテラスの上に水平に置かれている。
この板のそばを散歩する人にとっては、目を引くような目立つものは何もない。
装飾的な飾りもない。南側の縁に沿って「2005」と刻まれた日付のほかは、何も刻まれていない。
しかし、2016年03月上旬のある晴れた朝、観光客の一団が静かに近づき、亡くなった愛する人の墓の前に立つ友人、あるいは家族のようにその石板を取り囲んだ。彼らにとってこの石板が意味のあるものであることは明白である。
そのうちの何人かは、墓の上に小さな石を置いた。
これは、亡くなった友人や家族を讃えるユダヤ教の墓前の伝統であり、故人に彼らを忘れていないことを知らせる方法でもある。涙を流す人もいる。黙祷して頭を下げる者もいる。石板に手で触れる者もいる。また、この場所を記憶と後世に残すため、写真を撮る者もいる。
白い頭髪とあごひげを蓄えた初老の男性が先導して、年齢を感じさせないエネルギーとハキハキとした声で一行に静かに語りかける。しかし、この男性はラビでも司祭でもない。ノースカロライナ大学シャーロット校の教授で、キリスト教の起源と古代ユダヤ教を研究する著名な学者であり歴史家のジェームズ・テイバー博士(Dr. James Tabor, a prominent scholar and historian, professor of Christian origins and ancient Judaism at the University of North Carolina, Charlotte.)である。
テイバー博士は古代第二神殿後期のユダヤ教と初期キリスト教に関する世界的権威の一人とみなされている。
そして、この場所の地下にあるものについて、博士以上に詳しい人物はほとんどいない。
発掘された内容については、最初の発見から20年以上経ってから世界中のメディアの見出しを飾った。
博士をはじめとする人々にとって、この発見は、間違いなく人類史上最多の人生に影響を与えた人物である、イエスの人物像と生涯を示す、最も直接的な考古学的証拠である。
博士にとって、イエス・キリスト一族の墓として一般的に知られているこの墓は、生涯をかけた探求の大きな一里塚となった。しかし、この発見と博士の主張は、歴史上の他の考古学的発見の多くがそうだったように、学者たちの間に議論を巻き起こしている。
目立つことで有名になりたい米国の研究者を信じていない人が多い。
イエスの物語の他のどの部分と比べても、イエスのエルサレムでの生涯の最後の日々については、古今東西の文献に数多くのことが書かれている。
福音書の記述によれば、イエスは大祭司カイアファ(Caiaphas)、ヘロデ・アンティパス(Herod Antipas)、そしてローマ帝国の責任者ポンテオ・ピラト(Roman prefect Pontius Pilate)の前で裁かれ、ゴルゴダ(Golgotha/「されこうべの場所」)の十字架の上でローマ帝国の手によって十字架刑に処された。そして、アリマテアのヨセフの進行の下、近くの「新しい墓」に安置された(a nearby ‘new tomb’ under Joseph of Arimithea’s facilitation)と言う。
伝統的に、旧市街の北西部に位置する聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulcher)は、福音書の記述によれば、イエスの遺体が安置された十字架刑とその近くにある仮の墓の場所として、おそらく最も広く受け入れられている場所である。
私もエルサレムのゴルゴダ(Golgotha)と聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulcher)を見に行った。
キリスト教団体、特にプロテスタント団体の中には、実際の墓は聖墳墓教会のかなり北に位置する「庭の墓」と呼ばれる場所にあると主張するものもある。この墓の外観を見ると、福音書に登場する象徴的な場所のイメージとして、多くのイラストレーターによって描かれてきたものが容易にわかる。しかし、考古学的調査の結果、特にイスラエルの著名な考古学者であるヘブライ大学のガブリエル・バーカイ(Gabriel Barkay of the Hebrew University)による画期的な調査の結果、「庭の墓(Garden Tomb)」に実際の墓があるとされていることには疑問が投げかけられている。
テイバーは、自身の研究に基づき、十字架刑と仮埋葬の場所についてさらに別の場所を示唆している。
「ヨセフスによれば、ローマ人は街の門の外で十字架刑を行っていた。古代、町の門は東の門、すなわち幕屋の門として知られていた (According to Josephus, the Romans conducted crucifixions outside the gate of the city, Anciently, the gate of the city was known as the eastern gate, or gate of the tabernacle.」という。
ということは、磔刑の場所は、伝統的に受け入れられてきた北西ではなく、神殿の東側にあったと考えられる。
テイバーは著書『イエスの王朝:一族の秘められた歴史』(伏見威蕃、黒川由美共訳、2006年、ソフトバンククリエイティブ刊)の中でさらに詳しく述べている。
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「イエスが磔にされた場所としてより有力なのは、神殿を見下ろすオリーブ山の東側である。私たちの最も古い資料の一つは、イエスの磔刑を「門の外」と記している(ヘブル13章12-13節)。この「門の外」という専門的な表現は、神殿の聖域から東に少なくとも2000キュビト(約半マイル)の距離と解釈されていた」という。
十字架はオリーブ山に置かれたはず?
テイバーによると、十字架刑はオリーブ山で行われたはずという。神殿の聖域から十分離れており、儀式による穢れを避けることができ、またすぐ東の交通量の多い幹線道路を通って都に向かう旅人たちからはっきりと見える高い場所に、十字架は置かれたのだ。ローマ人が、幹線道路に近い丘の上で十字架につけられることを好んだことはよく知られている。
歴史のないアメリカ人の言うことは、なかなか信じてもらえない。
例えばツタンカーメンの墓を発掘したイギリス人ハワード・カーター(Howard Carter)もも疑われた。
本稿は「Popular Archaeology」で発表された、Dan McLerranによる「The Jesus Family Tomb」の翻訳である(画像提供:Jeff Jacobs, Pixabay)。
https://popular-archaeology.com/article/the-jesus-family-tomb/