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アメリカのアーティスト、ドロセア・タンニングが死去した。

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ArtDailyは2021年01月31日に、アメリカの画家、版画家、彫刻家、作家、詩人であったドロシア・マーガレット・ターニング(Dorothea Margaret Tanning/ドロシア・ターニング/Dorothea Tanning/1910 - 2012)が101歳で、2012年01月31日にニューヨーク・マンハッタンにあった自宅で死去したと報告した。

タニングは3人の姪と甥によって遺された。
彼女は、マックス・エルンストの子は産んでいないので、妹の子だろう。

ドロシア・ターニングは、アンドリュー・ピーター・タニング(Andrew Peter Tanning/1875 - 1946)とアマンダ・マリー・タニング(Amanda Marie Tanning/1879 - 1967)の子である。

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ドロシア・ターニングの姉妹は、妹のモーリン・E・タニング(Maurine E. Tanning/1905 - ?)と妹のメアリー・ルイーズ・タニング(Mary Louise Tanning/1915 - ?)がいた。

https://time-az.com/main/detail/67387

亡命してきたマックス・エルンスト(Max Ernst/1891–76)と出会い、マックス・エルンストの4番目の妻として結婚して、第二次世界大戦後にフランスに移住し、1976年04月01日に死去した夫の眠るパリのペール・ラシェーズ墓地(Cimetière du Père-Lachaise)に埋葬された。

マックス・エルンストの妻は、
ドイツのケルンで生まれたルイーズ・ストラウス=エルンスト(Luise Straus-Ernst/1893 - 1944)は、マックス・エルンストの唯一の子供ジミー・ハンス=ウルリッヒ・エルンスト(Jimmy Hans-Ulrich Ernst/1920 - 1984)をケルンで生んでいる。
ジミー・ハンス=ウルリッヒ・エルンストはイーディス・"ダラス"・バウマン・アーンス(Edith "Dallas" Bauman Ernst/1923 - 2011)と結婚して、数人のマックス・エルンストの孫が生まれている。
マリーベルテ・エルンスト(Marie-Berthe Ernst/? - ?)
ニューヨークで生まれたペギー・グッゲンハイム(Peggy Guggenheim/1898 - 1979)がいて、ドロシア・ターニングは最後の妻であった。

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彼女の初期の作品は、ニューヨークの近代美術館で1936年に開催された独創的な展覧会「Fantastic Art、Dada and Surrealism」に大きく影響を受けて、現実のものと想像上のものとが入り乱れ、夢のようで、優雅であり、邪悪な感じもする妄想的な怖いイメージを、写実的に描く、独特な世界を描いた。

1941年、デパートのメイシーのアートディレクターは、彼女の創造性とファッション広告を説明する才能に感銘を受け、彼女をギャラリーオーナーのジュリアン・レヴィ(Julien Levy)に紹介した。

ドロセア・タンニングは、レヴィと彼も妻で画家であったミュリエル・ストリーター(Muriel Streeter,)とも仲良くなり、レヴィはタンニングに2つの個展を企画し、実行した。

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ドイツの画家マックス・エルンスト(Max Ernst)を含む作品をニューヨークのギャラリーで展示していたエミグレシュルレアリスム(émigré Surrealists)の輪に加わった。

1942年にパーティで、戦争から逃げてきたマックス・エルンストに初めて出会い、その後、エルンストは、当時エルンストの妻であったペギー・グッゲンハイム(Peggy Guggenheim)が所有していたニューヨークのthe Art of This Century gallery in New Yorkで1943年に開催された「31人の女性展(Exhibition by 31 Women)」に彼女の作品を出品することを検討した。

タニングが回想録で書いているように、エルンストは、彼女の象徴的な自画像「誕生日(Birthday)」(1942年、フィラデルフィア美術館/Philadelphia Museum of Art)に魅了された。

二人はチェスをして恋に落ち、アリゾナのセドナ(Sedona in Arizona)に引っ越す前の数年間はニューヨークに住んでいたが、セドナで家を建て、アンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson)、リー・ミラー(Lee Miller)、ローランド・ペンローズ(Roland Penrose)、イヴ・タンギー(Yves Tanguy)、ケイ・セージ(Kay Sage)、パベル・チェリチェウ(Pavel Tchelitchew)、ジョージ・バランシン(George Balanchine)、ディラン・トーマス(Dylan Thomas)など、国をまたいだ多くの友人たちの訪問を受け入れていた。

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タニングとエルンストは1946年に、ハリウッドでマン・レイ(Man Ray )とジュリエット・ブラウナー(Juliet Browner)のダブルウェディングで結婚し、30年間の結婚生活を送った。途中、1949年にフランスへと旅立った。2人は、パリとトゥレーヌ(Touraine)の間を行き来し、1950年代の初めから半ばまでの間は、再びセドナに戻った。

エルンストは1975年に脳卒中を患って、パリの後、プロヴァンス(Provence)に住んでいたが、彼は1976年04月01日に亡くなった。

その後タニングはニューヨークに戻った。

彼女の詩集『A Table of Content(2004年)』の冒頭を飾る「Are You?」は、アイデンティティと自己信頼についてのより深いステートメントとして残っている。

If an expatriate is, as I believe, someone
who never forgets for an instant
being one,
then, no.
But, if knowing that you always
tote your country around
with you, your roots,
a lump
… that being elsewhere packs a vertigo,
a tightrope side you cannot
pass up, another way
to show
how not to break your pretty neck
falling on skylights:
… then, yes.

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米国の新聞「ロサンゼルス・タイムズ(LA Times/Los Angeles Times)」は、彼女の死亡記事で、もしエルンストとの出会いがなかったら、彼女の人生はどう変わっていただろうかと尋ねられたとき、タニングは後悔はしていないと答えた。しかし、彼女が1990年代に書いた詩「Stain」には、

Many years ago toda
I took a husband tenderly
This simple human gentle act
Seen as a hard decisive fact
By all who dote on category
Did stain my work indelibly
I don’t know why that is
For it has not stained his.
と書いていると紹介した。

彼女は、普通のアメリカの女の子であった。

マックス・エルンストにあって全てが狂った。

日本では、マックス・エルンストは有名であったが、長らくドロセア・タンニングは知られなかった。

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今回公開された作品は、ドロセア・タンニングによる1950年に描かれたナイト・シャドー(The Night Shadow)または未実現バレエ(Unrealized Ballet))のための舞台セットのデザインの設定。

紙に、Graphite, inkとガッシュで描かれ、25.4x35.6cm, 10x14インチ。
© ADAGP. Courtesy of The Destina Foundation, New York, and Alison Jacques Gallery, London.

パリのペール・ラシェーズ墓地(Cimetière du Père-Lachaise)の緯度、経度。
48°51'41.3"N 2°23'36.5"E
または、
48.861472, 2.393472

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1976-04-01---ドイツの画家で彫刻家マックス・エルンストが死去した。
1910-08-25---アメリカのアーティスト、ドロセア・タンニングが生まれた。
1891-04-02---ドイツの画家マックス・エルンストが誕生した。

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