イタリアの彫刻家で、家具デザイナー、音楽家のハリー・ベルトイアが死去。

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ArtDailyは2021年11月06日に、イタリアのポルデノーネ県サン・ロレンツォ(San Lorenzo, Pordenone, Italy)で1915年03月10日にのアリエート・ベルトイア(Arieto Bertoia)として生まれたアメリカ人アーティストで、音の鳴る彫刻(sound art sculptor/サウンドアート彫刻家)、モダン家具デザイナーであったハリー・ベルトイア(Harry Bertoia/1915 - 1978)は、彼がとても愛したベリリウム銅(beryllium copper)などからの有毒ガスが起因して、肺癌になり、彼は死を単に人生のもう一つの過渡的な部分として受け入れ、1978年11月06日に、63歳でペンシルバニア州バルト(Barto, Pennsylvania)の自宅で死去したと報告した。

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彫刻家であり、発明家でもある息子のヴァル・ベルトイア(Val Bertoia)が現在も使用している1トンの巨大なベルトイア・ゴング(Bertoia gong)の下で​​、ソナビエント・バーン(Sonambient Barn)の後ろにハリー・ベルトイアは埋葬された。

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彼の死後、妻のブリギッタ・ベルトイア(Brigitta Bertoia/婚前はブリギッタ・ヴァレンティナー/Brigitta Valentiner/1920 - 2007)、息子のヴァル・ベルトイア(Val Bertoia/1949 - )、娘のセリア・ベルトイア(Seria Bertoia)、娘のレスタ・ベルトイア(Lesta Bertoia)は、ハリーが始めた音楽の納屋コンサートの伝統を続けた。

彼の妻ブリギッタは、彼女が87歳の誕生日の直後の2007年に亡くなった。

一部では、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州(Friuli-Venezia Giulia)で生まれたとも言われている。

https://time-az.com/main/detail/62088

ハリー・ベルトイアは15歳までイタリアにいて、弟のオレステ(Oreste)に会うために父に同行してミシガン州に向かった。

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アメリカに移住してからは、イタリア語で「小さなハリー 」を意味する「Arieto」という名前から、アメリカ風にアレンジして「ハリー」にした。
彼は、言語とバスのスケジュールを学んだ後、Cass Technical High Schoolに入学し、美術とデザインを学び、1930〜1936年に手作りの宝飾品の技術を学んだ。

その後、 1936年に、彼はデトロイト・アーツ・アンド・クラフト協会(Detroit Arts and Crafts Association)、現在はクリエイティブ・スタディ・カレッジ(Creative Studies College)として知られているアートスクールに通った。

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翌1937年にクランブルック美術アカデミー(Cranbrook Academy of Art)で奨学金を受け、バウハウスの学長であったワルター・グロピウス(Walter Gropius/1883 - 1969)や、エドモンド・ベーコン(Edmund N. Bacon/1910 - 2005)、マンレイ(Man Ray/1890 - 1976)、チャールズ・エームス(Charles Eames/1907 – 1978)、 フローレンス・ノール(Florence Knoll/1917 - 2019)に出会った。

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1929年には、クランブルック美術アカデミーに残って金属加工を教えてほしいと頼まれた。授業以外の時間はモノプリントの制作に没頭し、その作品をソロモン・R・グッゲンハイム美術館(Solomon R. Guggenheim Museum)に送って評価してもらった。1943年、グッゲンハイム財団(Guggenheim foundation)はベルトイアの版画作品19点を展示した。

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しかし、1943年、クランブルック美術アカデミーが閉校となり、ベルトイアはカリフォルニアに移住した。
そこでチャールズ・イームズ(Charles Eames)やレイ・イームズ(Ray Eames/1912 - 1988)とともに、成形合板を彫刻するプロジェクトに取り組んだ。

最初は絵画を始めたが、すぐに金属彫刻を始めた。しかし、戦争になり、金属が高騰し、宝飾製作に専念した。

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その間、モノプリントの制作も続け、1945年にはサンフランシスコ美術館で初の展覧会を開催した。1950年にはペンシルバニアに移り、ハンス・ノール(Hans Knoll/1914 - 1955)と仕事をするようになった。

この時、ベルトイアは、現在もノール社で生産されている「ベルトイア ダイヤモンドチェア(Bertoia Diamond Chair)」シリーズをデザインした。1953年には、ゼネラルモーターズ(General Motors)社から建築用の彫刻の制作を依頼され、これがベルトイアの最初の作品となった。代表的な建築彫刻には、ダレス国際空港(Dulles International Airport)のためにデザインされた「宇宙から見た地球の眺め」、フィラデルフィア市民センターのためにデザインされた「波(Waves)」、シカゴのスタンダード・オイル・ビル(Philadelphia Civic Center)の前に設置された噴水作品「サウンディング(Sounding)」などがある。

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今回公開した作品は、ArtDailyで2017年11月06日に公開した、ハリー・ベルトイアの「Textured Screen(織ったスクリーン)」で、1954年にダラス公立図書館で初公開された時に、多くの議論を巻き起こした写真を公開した

ArtDailyで2018年11月06日に公開した作品は、ハリー・ベルトイアによるブッシュ彫刻(Bush Sculpture)。

Timeline

1915---Born in San Lorenzo, Pordenone, Italy
1937---He received a scholarship to study at the Cranbrook Academy of Art where he encountered Walter Gropius, Edmund N. Bacon and Ray and Charles Eames for the first time, Bloomfield Hills, MI
1938---Attended the Art School of the Detroit Society of Arts and Crafts, now known as the College for Creative Studies, Detroit, MI
1939---Opened his own metal workshop and taught jewelry design and metal work
1943---Married Brigitta Valentiner and moved to California to work with Charles and Ray Eames for the Evans Product Company
1950---Moved to Pennsylvania to establish a studio and to work with Hans and Florence Knoll
1950–1955---The commercial success enjoyed by Bertoia's diamond chair was immediate and in the mid-50's the chairs, produced by Knoll, sold so well that the royalties he received for them allowed him to devote himself exclusively to sculpture
1957---Fellow at the Graham Foundation in Chicago, IL
1978---Died in Barto, PA

ハリー・ベルトイア(Harry Bertoia)のBertoia Studioの緯度、経度。
40°24'07.7"N 75°35'10.9"W
または、
40.402139, -75.586369

1915-03-10---イタリアの彫刻家で、家具デザイナー、音楽家のハリー・ベルトイアが生まれた。


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