イギリスで印刷された最初のユダヤ教書籍。
イスラエルの国立図書館「The National Library of Israel(イスラエル国立図書館)」は2022年11月28日にダニエル・リプソン(Daniel Lipson)は、17世紀、イギリスにユダヤ人が戻ってきたとき、発展途上のコミュニティのメンバーは、意外にもユダヤ人印刷所の必要性を感じなかった。最初の印刷物は、数十年後に出版されたが、その後に内輪もめの論争が起こったと報告した。
非常に興味深いので、全文を訳す。
15世紀中期にヨハネス・グーテンベルグ(Johannes Gutenberg)が印刷機を発明して以来、ユダヤ人を対象とした印刷物が登場するようになった。
スペイン、イタリア、オスマン帝国などで、ユダヤ人は自国で印刷された、あるいは他国から輸入された学術書や祈祷書などを楽しむことができるようになった。
この重要な進展は、イギリスを飛び越えた。
1290年に追放されたユダヤ人が帰国を許されたのは、1656年のことである。オランダやドイツを中心とする彼らの帰還後も、ユダヤ人社会独自の目的のために新刊書や既刊書を出版する印刷所の設立が急がれることはなかった。
何十年もの間、イギリスではユダヤ教の書籍の印刷をされることなく、ユダヤ教の書籍は大陸から持ち込まれ続けたのである。
ヘブライ語の活字を使った作品は、ユダヤ人の再入国が許可される前にイングランドで出版されたが、それはたいてい、ヘブライ語やキリスト教の初期ルーツに関心を持つキリスト教学者向けに、個々の単語や短いヘブライ語の一節を印刷したものであった。
イギリスで最初に出版されたヘブライ語の文字を含む本は、「Oratio de laudibus & utilitate trium linguarum: Arabicae, Chaldaicae & Hebraicae」であった。
これは、ケンブリッジ大学(Universities of Cambridge)とオックスフォード大学(Universities of Oxford)の学者で、講師であったロバート・ウェイクフィールド(Robert Wakefield)が行った講義を印刷したものである。この講義は1524年に行われ、その後すぐにロンドンで印刷された。その後、オックスフォードやケンブリッジでヘブライ語を扱った本が印刷され、その中にはヘブライ語の文法や言語に関する本も含まれている。ヘブライ語の完全なテキストが出版されたのは、1643年の『詩篇(the Book of Psalms)』の翻訳が最初である。その後20年の間に、マイモニデスの『ミシュナー注解』(Maimonides’ Commentary on the Mishnah)、『悔恨の法』(Laws of Repentance)、『ミシュナー小論ベラホトとヨマ(the Mishnah tractates Berakhot and Yoma)』がイギリスで印刷された。これらはいずれもキリスト教の学者を対象としたものであった。
イギリスのユダヤ人向けのヘブライ語による最初の出版物は、ロンドンのセファルディコミュニティー(London’s Sephardic community.)を巻き込んだ深刻な論争に対応して、1705年に出版されたばかりである。
この共同体のラビ、ダヴィッド・ニエト(rabbi, David Nieto)は1654年にヴェネツィア(Venice)に生まれた。パドヴァ大学で医学を学んだ(studied medicine at the University of Padua)後、リヴォルノ市で医師(he worked as a physician in the city of Livorno)、ラビ判事(rabbinical judge)、ラビ(rabbi)として働いた。この著作は、キリスト教の復活祭(イースター)の日付と、カトリック、ギリシャ、ユダヤの暦の違いについて書かれたイタリア語の研究書である。この著作は、イタリアの有力貴族、トスカーナ地方の名家フランチェスコ・マリア・デ・メディチ(Francesco Maria de’ Medici, a member of the famous family from Tuscany. Throughout)に献呈された。ニエトは生涯を通じて、ユダヤ教の暦に関する問題に取り組み続けた。
1701年、ニエトはロンドンのセファルディコミュニティのリーダーとして招かれたが、その条件は「ロンドンで医学を修めないこと」であった。到着して間もなく、彼はすでにスペイン語でウィリアム3世の成功を祈る歌を作曲(composed and published a prayer for the success of King William III in Spanish)し、発表した。
1703年11月、ハヌカ祭(Hanukkah)の数日前の安息日、ラビ・ニエトは説教を行い、その中で、神と「自然」は一つであることなどを述べた。現代でもこの言葉は刺激的で不快に感じる人もいるかもしれないが、1703年当時、オランダからロンドンにやってきたイギリス系ユダヤ人の多くにとって、このラビの言葉は特に否定的な響きをもっていた。
彼の説教に同席した人の中には、オランダのユダヤ人同胞であるバルーク・スピノザ(Baruch Spinoza)のことをよく知っている人もいたに違いない。バルークは、ユダヤ教の原則に反する考えを持つ哲学者であった。
スピノザは、当時の他の哲学者と同様に、ユダヤ教の信者が認める霊的存在ではなく、自然そのものが真の神であると主張した。この世界観は汎神論(pantheism)と呼ばれ、神が宇宙を創造したのではなく(God did not create the universe)、宇宙と自然の法則が現実を創造し、生動している無限の存在であると主張する(universe and the laws of nature are an infinite entity that creates and animates reality)ものである。この考え方によれば、報酬と罰(reward and punishment)、善と悪(good and evil)、そして個人の摂理という概念は存在しない(personal providence, do not exist.)。
一部の聴衆にとって、ラビ・ニエトの説教は、スピノザの精神に則った異端の表現(expression of heresy, in the spirit of Spinoza)であった。
ロンドンでは、この新ラビの言葉に不安や怒りさえ覚える人がいた。クライマックスは、信徒であるイェホシュア・ザルファティ(Yehoshua Zarfati)が、ニエト師が出席した結婚式に、背教者であることを理由に参加を拒否したことであった。このような分裂と抗争に対し、ニエトは神の摂理をテーマにした『De La Divina Providencia』を出版した。
この本は、ルヴェン(Reuven)とシモン(Shimon)という二人のユダヤ人の対話で、一方が他方に個人の摂理の原理と神と自然との関係を説明する内容である。この本は1704年にロンドンで出版された。スペイン語で書かれたこの本は、意外なことにヘブライ語に翻訳されることはなかった。
ラビ・ニエトは著書の中で、「自然(ヘブライ語でteva טבע)」という言葉の使用そのものが、ユダヤ教にとって新しく、わずか数百年しか流通していなかったと主張している。それ以前は、神の創造物を表現する言葉は必要なかった。ギリシャ哲学がアラビア語に翻訳されてユダヤ人に知られるようになってから、他の科学的、哲学的な意見を持つ人々と論争するための適切な用語が必要になったのである。ラビ・ニエトは、神と自然が同じであることを強調し、詩篇147篇を引用している。
主は雲で空を覆い、雨で地を潤し、丘に草を生やされる。
自然の意味は「摂理(providence)」であり、摂理は神(providence is divine)である。そうでないと主張する者は、「カライート(Karaites)と背教者(apostates)」であるとラビ・ニエトは言っている。
この本は著者の期待通りにはいかず、ラビの反対派が追放され、コミュニティの一部のメンバーがシナゴーグ(synagogue)から追放されても、嵐はおさまらなかった。
そこで共同体は、アムステルダムの権威あるラビ裁判所(the prestigious rabbinical court of Amsterdam)にこの問題の裁定を仰ぐことにした。しかし、アムステルダムのラビ裁判所は、様々な理由で明確な答えを出すことができなかった。そこで、ロンドンのセファルディコミュニティのメンバー(The members of London’s Sephardic community)は、ハンブルグのセファルディコミュニティ(the Sephardic community in Hamburg)に頼ろうと考えたが、そのコミュニティには当時ラビがいなかった。
そこで、ロンドンのコミュニティのリーダーは、「ハカーム・ツヴィ(the Hakham Tzvi)」と呼ばれ、当時ヨーロッパの偉大なラビの一人とされていたアルトナ(Altona/ドイツ)のラビ・ツヴィ・アシュケナージ(Rabbi Tzvi Ashkenazi)に頼ったのであった。アシュケナージはモラヴィア(Moravia)出身で、人生の大半をセファルディ派のラビとして過ごしていたため、ロンドンのセファルディ派社会でも信頼できる人物と見なされた。
1705年8月、ロンドンにハカーム・ツヴィから手紙が届き、その中で彼はラビ・ニエを全面的に支持することを述べている。
その返事は、16世紀のイタリアの説教師ユダ・モスカートがユダ・ハレヴィの『ハザール人の書』(Sefer HaKuzari)を解説した『コル・イェフダ』(Kol Yehuda)から引用されたものである。 モスカート氏は、ヘブライ語の語源であるteva(「自然」)は、刷り込みや刻印を意味するヘブライ語のhatba'ah(הטבעה)にも出てくると説明している。この文脈では、聖なる者、祝福された神の印と本質を、その行為と創造物のすべてに押すこと、刻印することを意味する。
その答えの中で、ラビ・モスカート(Rabbi Judah Moscato)はヘブライ語のtevaという言葉の意味論と、神の摂理という文脈での一般的な性質と個々の性質の違いについて論じている。
この問題は神学的にも哲学的にも複雑なものであったが、この文通の目的は主にラビ・ニエトについての意見を聞くことであったので、ハカーム・ツヴィはこれ以上深く掘り下げることに意味がないと考えた。
ハカハム・ツヴィは、神との関係で「自然」という言葉を使うことを恐れる人々を安心させ、ラビ・イザヤ・ハレヴィ(Rabbi Isaiah Halevi1555-1630)のような他の偉大なラビも、著作の中でこのように「自然」を使っていることを指摘した。
ハカハム・ツヴィは次のような言葉でその答えを締めくくった。
「賢明で高名なラビ・ダビッド・ニエト(Rabbi David Nieto)が、自然について語る哲学者の意見に心を従わせてはならない、それは多くの過ちを招くと警告し、むしろすべては主の祝福された摂理によるという彼の真の信念によって人々を啓発した説教に感謝しなければならない。」
ハカム・ツヴィが送ったこの手紙は、ロンドンの非ユダヤ人印刷所で印刷され、1705年にコミュニティの指導者がロンドンのユダヤ人の間で配布された。わずか数ページの本ではあったが、ユダヤ人向けのヘブライ語による出版物はこれが初めてであった。
その後、この手紙はハカーム・ツヴィのユダヤ教の宗教法に関する問答集ハラハック・レスポンサ(Hakham Tzvi’s halakhic responsa)にも印刷されるようになった。
論争が収まると、ロンドンのユダヤ人社会は平穏を取り戻した。結局、ニエト師の説教を聞きに来た人たちの単なる誤解か、哲学的な問題の説明が不明瞭であったということであった。
その2年後、少し長い2冊の本がヘブライ語で印刷された。この本もまた、共同体の中で起こった議論をきっかけに出版された。ただ、この時はロンドンのアシュケナージ・コミュニティ(Ashkenazi community of London)が対象だった。
わからない時は、原文を読んでください。