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アメリカの写真家ドロシア・ラングが生まれた。

ArtDailyは2022年05月26日に、失業者やホームレス問題についての研究を行い、U.S.FSA(Farm Security Administration/農業安定庁)のためにFSAプロジェクトに参加し、大恐慌時代の作品で最もよく知られているアメリカのドキュメンタリー写真家で、フォトジャーナリストであったドロシア・ラング(Dorothea Lange/1895 - 1965)は、ドイツ系移民の法律家ハインリッヒ・マーチン・ナッツホルン(Heinrich Martin Nutzhorn/ヘンリー・マーチン・ナッツホルン/Henry Martin Nutzhorn/1859 - ?)と、その妻ヨハンナ・ナッツホルン(Johanna C. Nutzhorn/1873 - ?)の子として1895年05月26日にニュージャージー州のホーボーケン(Hoboken)で、ドイツ系移民2世のドロシア・ナッツホルン(Dorothea Nutzhorn)として生まれたと報告した。

彼女は、メイナード・ラファイエット・ディクソン(Maynard Lafayette Dixon/1875 - 1946)の先妻で、ポール・シャスター・テイラー(Paul Schuster Taylor/? - ?)の妻であった。

メイナード・ラファイエット・ディクソンとの子として、ダニエル・ローデス・ディクソン(Daniel Rhoades Dixon/1925 - 2009)とジョン・イーグルフェザー・ディクソン(John Eaglefeather Dixon/1929 - 2016)がいる。

https://time-az.com/main/detail/59942

彼女はニューヨークで写真を学び、学びながらフォトスタジオで見習いとして働いた。

1918年にサンフランシスコに移り、そこで肖像写真のスタジオを開き、画家のメイナード・ディクソン(Maynard Dixon)と結婚し、1925年にダニエル(Daniel)、1928年にジョン(John)を出産した。
その後世界恐慌の進展に伴って屋外での撮影を開始した。

1935年に画家のメイナード・ディクソンと離婚し、農業経済学者でカリフォルニア大学バークレー校経済学部教授のポール・シュスター・テイラー(Paul Schuster Taylor, Professor of Economics at the University of California, Berkeley)と再婚した。

彼はドロシアと共に社会・政治問題の研究を行い、5年間、ポールが聞き込みと経済統計を行い、ドロシアが写真を撮りながら、地方の貧困や寄生地主制の搾取、そして出稼ぎ労働者についての調査を行った。

ドロシア・ラングの写真は、大恐慌の結果を人間化し、ドキュメンタリーの写真撮影の開発に影響した。

今回公開された写真は、1953年にユタ州ガンロック、ポーチにカップルが座っているところを撮影した写真のゼラチン銀プリント(Gelatin silver print)である。

ジャックとメアリーロイスホイートリー(Jack and Mary Lois Wheatley)により寄贈された資金によって購入され、ブリガム・ヤング大学美術館(Brigham Young University Museum of Art)に寄贈された。
©Dorothea Lange Collection, Oakland Museum of California, City of Oakland. Gift of Paul S. Taylor

1941年には、素晴らしい写真が讃えられてGuggenheim奨学金(Guggenheim Fellowship)を得たが、真珠湾攻撃の後日系アメリカ人の強制収容(the internment of Japanese Americans)を記録するため奨学金を辞退し、強制収容所に移送される日系アメリカ人を取材した。

また、アメリカに忠誠を誓う日本の子供達の写真は、当時のアメリカに移住した日本人を象徴している。

ArtDailyが2017年05月26日に、公開した写真は、1936年のドロシア・ラング自身である。

彼女は、今しか撮れない写真を撮り続けた。

今、このときも、撮るべき場面は多い。なぜ撮らない?

今後100年しても撮れない場面が今、そこにある。

ウイルスは、そんなテーマである。

彼女は、1902年にポリオを発症し、当時まだ治療法が発見されていなかったため、衰弱し、右足の機能を失った。治療はしたものの常に足を引きずることになり、障害こそが自分の個性を形作る重要なものと考えるようになった。

晩年の20年は健康が優れず、潰瘍やポリオの後遺症に苦しんだ。

そして、1965年10月11日に70歳で他界した。

彼女のことを紹介しているWebページを見ると、ほとんど同じ代表的な写真を公開し、ものすごく狭い空間に押し込めようとしているように感じる。

ところが、彼女の作品を見ていると、常識は一つではないと感じさせる。
多分、Webページを作った人が、何も彼女から感じなかったのではないだろうか?

ニュージャージー州ホーボーケン(Hoboken)の緯度、経度
40°44'41.0"N 74°01'59.0"W
または、
40.744722, -74.033056

2015-02-22---日系ペルー人は、第2次大戦中に米国で収容され、人質交換要員だった。
2011-04-30---報道写真のパイオニア、モリスのコレクション・オークション。
2008-02-18---日系アメリカ人が強制収容された複雑な遺産地帯。
2007-03-30---第2次世界大戦中の日系アメリカ人の名前と住所。
1988-08-10---第2次世界大戦で強制収容された日系人に対する補償法が成立した。
1965-10-11---アメリカの写真家ドロシア・ラングが死去した。

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