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イタリア人の画家で版画家のアゴスティーノ・カラッチが生まれた。

ArtDailyは2022年08月16日に、イタリアのバロックの画家アンイバレ・カラッチ(Annibale Carracci/1560 - 1609)の兄で、ルドヴィーコ・カラッチ(Ludovico Carracciまたは、Lodovico Carracci/1555 - 1619)の従兄弟であるバロック初期のイタリアの画家で版画家のアゴスティーノ・カラッチ(Agostino Carracci/1557 - 1602)が、1557年08月16日にボローニャ(Bologna)で生まれたと報告した。
兄弟の父親は、息子1号カラッチ(son #1 Carracci/息子#1カラッチ)と言われ、はっきりしないがSr.カラッチ、Sr.(Sr. Carracci, Sr./初代カラッチ)の最初の息子であった言われている。

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アゴスティーノ・カラッチは、1574年からは複製彫刻家として活動し、フェデリコ・バロッキ(Federico Barocci)、ティントレット(Tintoretto)、アントニオ・カンピ(Antonio Campi)、ヴェロネーゼ(Veronese)、コレッジョ(Correggio)といった16世紀の巨匠の作品を模写した。また、2つのエッチングを含むオリジナルの版画も制作した。

彼はヴェネツィア(1582年、1587年~1589年)とパルマ(1586年~1587年)を訪れている。

ボローニャでは、アンニバレ(Annibale)やルドヴィコ(Ludovico)とともに、ファーヴァ宮(Palazzo Fava)のフレスコ画(「ジェイソンとメデアの物語(Histories of Jason and Medea)」、1584年)やマグナーニ宮(Palazzo Magnani)のフレスコ画「ロムルスの物語(Histories of Romulus)」、1590年から1592年)を制作した。1592年には、現在ボローニャのピナコテカに所蔵されている「聖ジェロームの聖体拝領(the Communion of St. Jerome,)」も描いており、彼の最高傑作とされている。
1586年には、パルマのナショナル・ギャラリー(National Gallery of Parma)に所蔵されている「聖人と子供のいる聖母」の祭壇画(altarpiece of the Madonna with Child and Saints)を描いている。1598年、カラッチは弟のアンニバレとともにローマに赴き、ファルネーゼ宮のギャラリーの装飾(Gallery in Palazzo Farnese)を担当した。

1598年から1600年にかけては、現在ナポリにある風俗画の一例である「三人の肖像(a triple Portrait)」を描いている。1600年、ラヌッチョ1世ファルネーゼ公爵(Duke Ranuccio I Farnese)に呼ばれてパルマに行き、パラッツォ・デル・ジャルディーノ(Palazzo del Giardino)の装飾を始めたが、完成する前に亡くなってしまった。アゴスティーノの息子アントニオ・カラッチ(Agostino's son Antonio Carracci)も画家であり、父のアカデミーに対抗しようとした。

ルドヴィーコ・カラッチは、ボローニャで、ミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni/1475 - 1564)が、肖像画家として第221代 ローマ教皇であったユリウス3世(Julius III/1487 - 1555)に紹介したプロスペロー・フォンターナ(Prospero Fontana/1512 - 1597)の徒弟を務めた後、フィレンツェ、パルマ、ヴェネツィアに旅し、ボローニャに戻って、1585年に、従兄弟のアゴスティーノ・カラッチ、アンニイバレ・カラッチと一緒に、カラヴァッジオのような自然の表現を目指すためのアカデミア・デリ・インカミナーティ(l'Accademia degli Incamminati)という、いわゆる折衷主義(Eclecticism in art)の絵画学校と言いながら、事実上は、徒弟を助手にした工房を設立し、指導した。

カラッチ・ファミリーは、各メンバーが、アカデミーに独自の貢献をした。ルドヴィーコ・カラッチが行政上の地位を占め、アゴスティーノ・カラッチが新しい情報を収集し、アンイバレ・カラッチが創造性、インスピレーション、絵画技法のレッスンを提供したと考えられている。

ルドヴィーコ・カラッチは、古典的な作品の石膏模型のコレクションを含む、新しい教材を組み立てて統合し、教材として使用した。

アゴスティーノ・カラッチは、アート、音楽、哲学、数学、天文学、地理学、地図学、人類学、自然史など、さまざまなテーマで学校に知識の富をもたらした。
彼は解剖学の知識を利用して、人間の形の詳細な図を作成し、学生のために彼自身のコレクションから本とメダルを提供した。

アンイバレ・カラッチは、グループで最も経験豊富なアーティストで、生徒たちとの共同作業を通じて絵画に関する知識を共有した。

つまり、3兄弟のカラッチは、教育を受けた次世代のアーティストに、実践的および理論的な観点から有効な教育を提供することを目的としていた。学生は、彼らが芸術的スキルを発達させることができる知的背景を確立するために、いくつかの科目で訓練を受けた。自然の研究に重点が置かれ、学生は人生から描くことを練習するように励まされた。カラッチは、生徒たちを実験的なドローイング、似顔絵、風景画、模倣、解剖学、遠近法、芸術理論の研究に導いた。学生はまた、歴史、寓話、詩の発明から教えを受け、そこからインスピレーションを得た。

アカデミア・デリ・インカミナーティの学生では、フランチェスコ・アルバーニ(Francesco Albani)、グイド・レーニ(Guido Reni)、ドメニコ・ザンピエリ(Domenico Zampier)/ドメニキーノ(Domenichino)、ジョヴァンニ・ランフランコ(Giovanni Lanfranco )、アントニオ・カラッチ(Antonio Carracci)、およびシスト・バダロキオ(Sisto Badalocchio)らが育っている。

アゴスティーノ・カラッチは、1586年から1587年までパルマ、1587年から1589年までヴェネツィアを旅し、ボローニャに戻って、アンイバレ・カラッチとルドヴィーコ・カラッチとともにPalazzo FavaやPalazzo Magnaniの壁面にフレスコ画を描いた。また1592年には、現在ボローニャ美術館に収められ、彼の最高傑作とみなされている『Communion of St. Jerome 』という作品を描いた。

しかし、ここで学んだ大勢の折衷主義画家たちが、ローマや他の都市で有名になり、16世紀後半にはボローニャ派と呼ばれる画家たちに育っていった。つまり、アゴスティーノ・カラッチ、アンイバレ・カラッチとルドヴィーコ・カラッチが元祖ボローニャ派とも言える。
また、彼らが作った「アカデミア・デリ・インカミナーティ」をボローニャ・スクール(Bolognese School)、ボローニャ・アカデミー(Bolognese Academy)とも呼ぶことがある。

アゴスティーノ・カラッチが初めてヴェネツィアを訪れたときに、ヴェネチアの宮廷女官であったイザベラ(Isabella Venetian courtesan/? - ?)と関係を持ったことがきっかけで結婚し、のちに画家になったアントニオ・マルツィアーレ・カラッチ(Antonio Marziale Carracci/1583 - 1618)をヴェネツィアのサンタルチア教区(Sta Lucia in Venice)で生んでいる。

オドアルド・ファルネーゼ枢機卿(Cardinal Odoardo Farnese)の友人であり弟子であったジョヴァンニ・バッティスタ・アグッキ(Giovanni Battista Agucchi)は、1609年の手紙の中で、シスト・バダロッキオ(Sisto Badalocchio)と一緒に育てられ、ドメニキーノ(Domenichino)やランフランコ(Lanfranco)とほぼ同世代であったと語っている。彼は最初、父のもとで修行した。当時のバロック芸術家の主な伝記作家であるバジリオーネ(Baglione)、ベローリ(Bellori)、マルヴァジア(Malvasia)は、彼について何らかの記述をしている。彼は最初に父親のもとで修行した。マルヴァジアは、17歳で完成させた「聖母子像」を父が賞賛していたと回想している。

1619-11-13---イタリアの画家ルドヴィコ・カラッチが死去した。
1609-07-15---イタリアのバロックの画家アンイバレ・カラッチが死去した。
1591-02-08---イタリア・バロックの画家グエルチーノが生まれた。
1578-08-17---フランチェスコ・アルバーニは、1578年08月16日?17日?18日?に生まれた。
1575-11-04---イタリアの画家で、イラストレーターのグイード・レーニが生まれた。
1560-11-03---バロックを開始したイタリアの画家アンイバレ・カラッチが生まれた。

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