イギリスの画家トマス・ゲインズバラが死去した。
ArtDailyは2019年8月02日に、イギリスの肖像と風景画家、草案家、版画家で、晩年はリチャード・ウィルソン(Richard Wilson)とともに、18世紀のイギリスでランドスケープ・スクールの創始者として、風景画を描いたことで知られているトマス・ゲインズバラは(Thomas Gainsborough/1727 - 1788)は1788年08月02日に、イギリスのロンドンで、癌により、61歳で亡くなった。
彼の娘ペギー(Peggy)によると、彼の最後の言葉は「ファンダイク(van Dyck)」だった。
https://time-az.com/main/detail/60837
彼はサリー州キューのキューグリーンにあるセントアンズ教会(St. Anne's Church, Kew, Surrey on Kew Green)の墓地に埋葬されている。
友人のジョシュア・カービー(Joshua Kirby)の近くに葬られるのは彼の明白な願いであった。後に彼の妻と甥であるゲインズボローデュポン(Gainsborough Dupont)は彼と一緒に葬られた。
彼は、1727年05月14日に、ジョン・ゲインズバラ(John Gainsborough/1983 - 1748)とメアリー・ゲインズバラ(Mary Gainsborough/1690 - 1755)の子としてイギリスのサフォーク州サドベリー(Sudbury, Suffolk, England/United Kingdom)で生まれた。
兄弟は、
兄のジョン・ゲインズバラ(John Gainsborough/1711- 1789)
姉のメアリー・ゲインズバラ(Mary Gainsborough/1713 - 1790)
姉のサラ・ゲインズバラ(Sarah Dupont/1718 - 1795)
姉のマティアス・ゲインズバラ(Matthias Gainsborough/1725 - ?)
姉のエリザベス・ゲインズバラ(Elizabeth Gainsborough/1726 - ?)
姉のスーザン・ゲインズバラ(Susan Gainsborough/1726 - ?)の他に2人がいた。
彼は、ボーフォート公爵3世ヘンリー・スカダモア(Henry Scudamore, 3rd Duke of Beaufort/1707 - 1745)とパートナーであったNN、ミストレス(NN, Mistress)の私生児マーガレット・ゲインズバラ(Margaret Gainsborough/1728 - 1798)と結婚し、3人の娘
メアリー・フィッシャー(Mary Fischer/1750 - 1826)
マーガレット・ゲインズバラ(Margaret Gainsborough/1751 - 1820)
メアリー・ゲインズバラ(Mary Gainsborough, (A)/? - 1748)がいた。
偶然にもヨハン・ゾファニー(Johan Zoffany)とフランツ・バウアー(Franz Bauer)も同じ墓地に埋葬されている。
1780年代、トマス・ゲインズバラは「ショーボックス(Showbox)」と呼ばれるデバイスを使用して、風景を構成し、バックライトをガラスに表示した。元のボックスは、再現性のある透明度でビクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria & Albert Museum)に展示されている。
1768年にロイヤル・アカデミーの設立に参加したが、1784年以降はアカデミーとの対立もあり、自宅で個展を開くなど、表に出て行かなくなった。
彼はライバルのジョシュア・レイノルズ卿(Sir Joshua Reynolds)を凌駕し、18世紀後半のイギリスの肖像画家として支配的になった。
彼は素早く描き、彼の成熟の作品は軽いパレットと容易なストロークにより特徴付けられ、生涯に肖像画800点以上、風景画は約200点を残している。
彼は、肖像画を多く残しているが、風景画を好んだ。
1945年に公開された映画1780年代のロンドンを舞台にしたコスチューム・ドラマ『キティ(Kitty)』では、セシル・ケラウェイ(Cecil Kellaway)がゲインズバラを演じている。
原作はロザモンド・マーシャル(Rosamond MarshallI)の同名小説(1943年出版)で、脚本はカール・タンバーグ(Karl Tunberg)が担当し、ミッチェル・ライゼン(Mitchell Leisen)が監督した。
映画を観たかったが、YouTubeにはなかった。
imdbには貴重な資料があった。
今回公開された写真は、2003年06月09日月曜日にボストンで美術館(Museum of Fine Arts, Monday, June 9, 2003, in Boston)で開催されたトマス・ゲインズバラ展(Thomas Gainsborough exhibit)で、警備員が絵画を監視している写真で、1787年頃にイギリスの画家トマス・ゲインズバラによって描かれた自画像が、右に見える。
ArtDailyで2018年08月02日に公開された作品は、1770年頃に描かれ、馬とカートがある風景と荒野(Landscape with Horse and Cart, and Ruin)。
糊付け紙、敷物紙、漆に油彩、鉛白チョーク、水彩画、黒チョークで描かれている。
1909年に、ピーポイント・モーガン(Pierpont Morgan/1837 - 1913)が購入し、The Morgan Library & MuseumのIII 55に所蔵されている。
Photography by Steven H. Crossot, 2014
父親に素描の才能を見いだされ、ユベール・グラベロット(Hubert Gravelot)、フランシス・ヘイマン(Francis Hayman,)、およびウィリアム・ホガース(William Hogarth)とともに、アートを勉強するため、1940年頃に、ロンドンに移った。
1746年に、彼はマーガレット・バー(Margaret Burr)と結婚し、カップルは2人の娘の両親になった。
イギリスは当時、まだフランスやイタリアのような自由な絵画ではなく。ほとんどが肖像画か、彫刻も王や英雄などの立像か、馬に乗っているもの、または教会に安置された墓などに限られていた。
つまり、イギリスは島国で、海賊が多く、文化的には、ヨーロッパでかなり遅れた地域であった。
シェークスピアも、田舎芝居の脚本家であった。
だから、その内容も王様の相続問題や戦争、裏切りなどの史実が多い。
その後、奴隷や海賊で成功し、素晴らしく装飾された。
つまり、コンプレックスが作り上げた幻想であった。
当時の美術史家は、歴史的に有名なローマに旅をしたときのことを日記にした資料も残っているが、そのショックが大きかったようだ。
例えば、ローマの街には、裸の男がヘビ絡まれ、噴水には魔物が住み、町中にリアルな男と女の裸の彫刻があり、町中が卑猥であると書いている。
言われてみれば、一つ一つ思い当たる作品がイタリアにはある。
つまり、スペイン海軍に勝ち、イギリス海軍が世界を制すると、自国を正当な文化国として認めさせるために、シェークスピアなどを正当な文化として、強制的に押し付けた結果である。
サリー州キューのキューグリーンにあるセントアンズ教会(St. Anne's Church, Kew, Surrey on Kew Green)の墓地の緯度、経度。
51°29'01.8"N 0°17'16.0"W
または、
51.483836, -0.287786
2017-07-26---イギリス人のお気に入りアート作品は、バンクシーの代表作が1位!
1727-05-14---イギリスの画家トマス・ゲインズバラは洗礼を施された。
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