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ロシア・アヴァンギャルドの画家リュボーフィ・ポポーワが死去した。

ArtDailyは2022年05月25日に、ロシアのアバンギャルドロシア(avant-garde/前衛芸術家)を代表するアーティストで、キュービスト(Cubist)、シュプレマティスト(Suprematist/絶対主義者)、および構成派(Constructivist)の画家で、デザイナーで、モスクワ近郊のイヴァノフスコエ(Ivanovskoe, near Moscow/Ивановское, под Москвой)で非常に成功した織物商人であり、劇場、テキスタイル、タイポグラフィのデザインなど、幅広い分野で活躍し、芸術の熱心な後援者であったセルゲイ・マキシモビッチ・ポポフ(Sergei Maximovich Popov/Сергей Максимович Попов/1862 - 1934)と、高度に文化的な家族から来たリュボフ・ヴァシリエフナ・ポポヴァ(Lyubov Vasilievna Popova/Любовь Васильевна Попова/? - 1923)の娘で、ボリス・ニコラエヴィッチ・フォンエディング (Boris Nikolayevich Fon-Eding/Борис Николаевич Фон-Эдинг/1889 - 1919)の妻であったリュボフ・セルゲイエフナ・ポポヴァ(Lyubov Sergeyevna Popova/Любовь Сергеевна Попова/1889 - 1924)が、息子の死後2日目の1924年05月25日にモスクワで息子から感染した小児に多い発疹性伝染病の猩紅熱(скарлатина/scarlet fever/しょうこうねつ)により、35歳で死去したと報告した。

彼女は、彼女のピーク時に亡くなったため、1924年12月21日から1925年01月まで、モスクワのストロガノフ研究所(Stroganov Institute, Moscow)で 、彼女の作品の大規模な展示が開かれた。

展覧会には、77点の絵画、本、ポスター、テキスタイルデザイン、線彫りなどのポポヴァの作品が含まれていた。 「アーティスト-コンストラクター(Artist-Constructor)」と言う用語は、アーティストの死後の展覧会のカタログで彼女の同時代人によってポポヴァに適用された。

https://time-az.com/main/detail/64475

リュボーフィ・ポポーバは、モスクワ近郊のイワノフスコエ(Ivanovskoe)で、非常に成功した繊維商人で活発な芸術家でもあった父親セルゲイ・マキシモヴィッチ・ポポーバ(Sergei Maximovich Popov)と高等教養家から来た母親リュボフ・ヴァシリエフナ・ズボワ(Lyubov Vasilievna Zubova)の裕福な家庭で生まれた。

リュボーフィ・ポポーワには、セルゲイ・セルゲイエヴィチ・ポポフ(Sergei Sergeyevich Popov/Сергей Сергеевич Попов/1887 - 1938〜1942)、パヴェル・セルゲイエヴィチ・ポポフ( Pavel Sergeyevich Popov/Павел Сергеевич Попов/1892 - 1964)、オルガ・セルゲイエヴィナ・ポポヴァ(Olga Sergeyevna Popova/Ольга Сергеевна Попова/? - ?)の妹であった。弟のパベル(Pavel)は哲学者となり、姉の芸術的遺産の守護者となった。

彼女は驚いたことに、ポレシャエフ家(Полежаевых)、マルギン家(Мальгиных)の遠い子孫で、ロストフ(Ростове)の有名な家系に関係していることが判明した。
「ロシア・アバンギャルドのアマゾン(амазонка русского авангарда)」と呼ばれたアレクセイ・ミハイロビッチ・ポレシャエブ(Алексея Михайловича Полежаева)の孫娘リュボフ・セルゲイエフナ・ポポヴァは、彼の娘のアレクサンドラ(Александры)を介して、O.D.マルギナ(О.Д. Мальгиной)の孫にあたるV.L.ポレシャエブの甥(внучатым племянником В.Л. Полежаевой)である美術史家ボリス・ニコライエヴィッチ・フォンエディングと、1918年にロストフ(Ростове)で結婚式を挙げた。

彼女は最初にヤルチンスカヤ女子ギムナジウム(Yaltinskaia's Women's Gymnasium/Ялтинская женская гимназия)に入学し、次にモスクワのアルセネバ・ギムナジウム(Arseneva's Gymnasium in Moscow/Гимназия Арсеньевой в Москве)に入学した。
18歳までに、彼女はスタニスラフ・ジュコフスキー(Stanislav Zhukovsky/Станислав Жуковский/1873 – 1944)に師事し、1908年にコンスタンチンユオン(Konstantin Yuon/Константин Юон/1875 - 1958)とイヴァンOデュディン(Ivan O. Dudin/Иван О. Дудин/1867 - 1924)の「タワー(The Tower)」として知られるモスクワ個人スタジオに入り、1913年から1912年に、彼女はキュビズムの画家ヘンリ・ル・フォーコニー(Henri Le Fauconnier)とジャン・メッツァンジェ(Jean Metzinger)のパリのスタジオアカデミー・ド・ラ・パレット(Académie de La Palette in Paris)通い始めた。

彼女はパリで、ロシアのオリョール村で生まれたナデダ・ユーダルツオーバ(Nadezhda Udaltsova/Надежда Удальцова/1885 - 1961)、アレクサンダー・アーキペンコ(Alexander Archipenko/Александр Архипенко1887 - 1964)とオシップ・ザッキン(Ossip Zadkine/Осип Задкине)と出会った。

ポポヴァはさまざまなスタイルの絵画を調査して学ぶために広く旅をしたが、彼女ga最も興味を持ったのは古代ロシアのアイコン、ジョットの絵画、そして15世紀と16世紀のイタリアの画家の作品であった。

また、フランスでキュービズムに影響され、イタリアで未来派に触れている。

そして、キューボ未来派(Cubo-Futurism/ロシア未来派)における最初の女性開拓者の一人になった。

つまり、フランスとイタリアからの影響の融合を試みた。

今回公開された作品は、1912年の作品で「Air+Man+Space」キャンバスに油彩。125x107cm
サンクト・ペテルブルクのロシア国立博物館が所蔵している。

1956-12-04---ロシアの画家で写真家のアレキサンダー・ロドチェンコが死去した。

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