イタリアの彫刻家で、建築家ヤコポ・サンソヴィーノが生まれた。
ArtDailyは2022年07月02日に、イタリアの彫刻家で建築家であり、ヴェネツィアのサン・マルコ広場(Piazza San Marco in Venezia)周辺の作品で最もよく知られているヤコポ・デ・アントニオ・サンソヴィーノ(Jacopo d'Antonio Sansovino/ヤコポ・サンソヴィーノ/Jacopo Sansovino/アンドレア・ダル・モンテ・サンソヴィーノ/Andrea dal Monte Sansovino/アンドレア・コントゥッチ・デル・モンテ・サンソヴィーノAndrea Contucci del Monte San Savino/1486 - 1570)が、1486年07月02日にイタリアのフィレンツェ(Firenze)で生まれたと報告した。
ベネチアで18世紀のヴェネツィアの有名な画家ジャンバッティスタ・ピットーニ(Giambattista Pittoni)とジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ(Giovanni Battista Tiepol)によって1750年に創設されたベネチア美術アカデミー(Accademia di belle arti di Venezia)の学生に、ベネチア・ビエンナーレの話をすると、どの作品もクズだと言う。
ベネチアでは、ヤコポ・サンソヴィーノを抜く作品はまだない、イタリア・ルネッサンスの作家も抜けないと言っていた。
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彫刻の媒体で彼の最も重要な信者は、ヴェネツィア派のイタリアの マニエリスム彫刻家であり、「ヴェネツィアの古典様式(the Venetian classical style)の主要な代表者の1人」であり、16世紀後半のイタリアの第一人者としてジャンボローニャ(Giambologna)に匹敵アレッサンドロ・ヴィットーリア(Alessandro Vittoria/1525 – 1608)であった。
別の弟子は、ヴェネツィアのサンソヴィーノのサークルの1人として、1530年にサンサルバドルのオルガンのベースにある聖ジェローム(St Jerome at the base of the organ in San Salvador)で評判になった建築家で彫刻家のダニーズ・カッタネオ(Danese Cataneo/c1512? - 1572)であった。
サンソヴィーノが建築家として最も力を発揮したのも、サン・マルコ広場とその周辺であった。ベッサリオン枢機卿(Venice by Cardinal Bessarion)がヴェネツィア市に残したコレクションを立派に保存するために設計された図書館(Library)、造幣局(the Mint)、ログジェッタ(Loggetta)などは、それぞれ異なる機能を持っているが、いずれも既存の建物との調整が必要であった。これらの建物が、ヴェネツィアで唯一の大空間であるサン・マルコ広場との関係で印象に残ることは、サンソヴィーノの建築家としての才覚と独創性を示している。造幣局(1537-1554)は、厳しいドーリス式の秩序(severe Doric order)と重厚なラスティケイション(heavy rustication)を用いて、安全な宝物庫としての機能を強調し、意図的にコンパクトにまとめられている。一方、図書館(1536-1554年、1588年にヴィンチェンツォ・スカモッツィ(Vincenzo Scamozzi)が完成)は、ピアゼッタ(Piazzetta)の反対側にあるドゥカーレ宮殿(Ducal Palace)と調和するように、水平方向に長いファサードが低く抑えられており、建築物や彫刻のディテール、光と影の強いコントラストがより豊かな印象を与えている。小さなロジェッタには、高くそびえる鐘楼の土台となる凱旋門の形で、最も多くの彫刻的装飾が施されている。
またヤコポ・サンソヴィーノは、主要な公共建築以外にも、市場の規制や都市の整備、教会や個人の住居、本土の別荘など、数え切れないほどのデザインを手がけた。彼の設計の中には、実行されなかったものや、他の建築家によって完成されたものもあるが、サンソヴィーノの存在と、彼の図面や建物に表現されたアイデアは、同時代、そして後のヴェネツィアの建築家たちに強い影響を与え続けている。例えば、彼の1537年着工した「コーナー・パレス(Corner Palace)」は、ヴェネツィア・ゴシックの軽快なアーケードや装飾パターンを、ドナート・ブラマンテの大きくシンプルなフォルムや、ヴェネツィアの要求に合わせた現在のローマ建築とのバランスを考慮したものに変えた点で、決定的な意味を持っている。
サンソヴィーノはヴェネツィアで亡くなり、一人の息子は著名な作家となった。サンソヴィーノの人生の質の高さは、ヴァザーリによって感動的に伝えられている。ヴァザーリは、サンソヴィーノが「偉大な人にも、小さな人にも、そして友人たちにも非常に愛されていた(very dear both to the great and to the small and to his friends)」、「彼の死はすべてのヴェネツィアにとっての悲しみだった。(his death was a grief to all Venice.)」と記している。
彼の息子のフランチェスコ・サンソビノ(Francesco Sansovino)は、重要な学者であり、美術評論家であった。 彼の娘、アレッサンドラ・タッティ(Alessandra Tatti)は、フィレンツェの画家のヤコポ・ディ・キメンティ・ダ・エンポリ(Jacopo di Chimenti da Empoli/キメンティ・ダ・エンポリ/Chimenti da Empol)と結婚した。彼は、単にエンポリ(Empoli)としても知られている。
ヤコポ・サンソヴィーノは最初、ヤコポ・タティ(Jacopo Tatti)と名乗っていたが、アンドレア・サンソヴィーノ(Andrea Sansovino)の下で彫刻家として修行し、彼の名を譲り受けヤーコポ・サンソヴィーノと改名した。
ローマでは、ラファエロ(Raffaello Santi/1483 - 1520)とドナト・ブラマンテ(Donato Bramante/1444? - 1514)から知らせ受け、画家ペルジーノ(Perugino/1448 - 1523)の十字架降架(Deposition of Christ, Descent from the Cross)を描く際に使用したワックス彫像を作成した。
1511に、フィレンツェに戻り、現在のバルジェロ美術館(Museo Nazionale del Bargello)からサン・ロレンツォ教会(San Lorenzo a Firenze)の正面に飾るバッコス(Βάκχος/Bakkhos)の大理石像の依頼を受けたが、ミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni/1475 - 1564)によって拒否された。
その後ミケランジェロが、この企画を担当したことから、彼は1518年に辛辣な抗議文を書いた。
1527年まで、ローマで彫刻家、および古代彫刻修復家として働いたが、ローマ略奪(Fuggì da Roma)事件後、ヴェネツィアに逃れた。
彼はそこでサン・マルコ大聖堂(basilica di San Marco)のドーム修復に携わり、1529年には、サン・マルコ大聖堂改修の初代監督官に任命された。
アンドレア・パラーディオ(Andrea Palladio)は、クワトロ・リブリ(Quattro Libri)への序文で、サンソビーノのマルチャーナ図書館(Sansovino's Biblioteca Marciana)が、古代以来建造された最もよい建物であったと書いている。
ジョルジオ・バサリ(Giorgio Vasari)は、独自にヴィソ・オブ・サンソヴィーノ(Vita of Sansovino)を印刷した。
ArtDailyで2019年11月27日に公開された写真は、2人の修復者が、2010年11月10日にフィレンツェ(Florence)のLab Opificio Pietre Dureで修復した後に発表されたヤコポ・サンソヴィーノによるマドンナと子供(Madonna and Child)の修復に取り組んでいる時に撮影された。
ArtDailyで2018年11月27日に公開されたのは、1505年〜1507年に作られたセント・ヨハニノのマスター、砂岩のサン・ジョン(Maestro del san giovannino, san giovannino nel deserto)