【無料公開】心が老いない生き方 - 年齢呪縛ふりほどけ! -
「もういい歳なんだから、あたらしいことはできない」「食べ物も質素にして着るものだって地味な色を選ばないと……」など、「年齢呪縛」にかかると何事にも慎重になって自分にブレーキをかけるようになる。
すると心の自由も行動の自由もどんどん奪われる。
結果、老いが固定され、年齢通りの高齢者になってしまう。
当然、見た目の若々しさや溌溂さも消え、日々の暮らしに楽しみもなくなっていく……。
こういう状態が「心の老い」だ。
本書では、心の自由を取り戻し、高齢期の自由な時間をワクワクして生きるための方法を、「高齢者専門の精神科医」がお教えします!
『心が老いない生き方 - 年齢呪縛をふりほどけ! -』(2023年6月8日)発売を記念して、本文を一部無料公開いたします!
はじめに
齢(とし)をとってくると、夢や希望が変わってきてしまうような気がします。
若いころは、もっと偉くなりたいとか、もっとお金を稼ぎたいとか、もっと異性にモテたいとかいろいろと欲望がありました。
齢をとると、そういう欲望が薄れてくる代わりに、「~~ない」という欲望が強くなる気がするのです。
病気をしたくない、ボケたくない、寝たきりになりたくない、老け込みたくないといった類です。
高齢者専門の医者をやっていると、「病気をしたくない」というのは多くの人が望むものの、実は無理だということがわかります。健康診断でいつも正常であるように気をつけていても、がんが襲うことは珍しくありません。ボケないというのも、実は無理な話で、85歳を過ぎて脳にアルツハイマー型の変性が起こらない人がいないというのを毎年100人もの方の解剖結果を見て目の当たりにしてきました。
寝たきりとかボケを遠ざけるために歩き続ける、頭を使い続けるのは有効ですが、遅らせることはできても、そうならないということは意外に難しいものです。
以上、挙げた中で、唯一、私が防ぐことが可能だと思うのは、老け込まないことです。
たしかに顔のしわは増えたり、背中が丸まったり、脳が衰えたりしますが、老け込むというのはそういうことではないと私は見ています。
外見や体力は老け込んでも、心が老け込まなければ、若い気持ちでいられるのです。
逆に年齢の割に外見が若々しかったり、頭も体もしっかりしているのに、老け込んだ考え方の人もいます。
長年、たくさんの高齢者を診ていると、高齢者には個人差が大きいことがよくわかります。
そして、実は年齢というのは意外に意味のないものなのだと気がつきます。
ある老年医学者の先生が、老人というのは65歳とか年齢で区切るのでなく、上から1割くらいで区切っていいのではないかとおっしゃっていました。たしかに、周りの9割の人が自分より若ければ、自分が年寄りと感じてもおかしくありません。
去年の敬老の日の発表によると、日本人の9.9%が80歳以上なので、この考え方でいくと80歳以上が老人ということになります。
あるいは、医学的にみれば歩行機能が衰えたり、認知機能が衰えたりしたら、老人と言えるが、そうでなければ、まだ中高年の続きという考え方もできます。
人々の栄養状態がよくなり、医療の発達もあって、個人差が大きいものの元気な高齢者が増えているので、そうした意味では、齢をとっていても、老人ではない人が増えているのでしょう。
でも、私はそんなものでない気がします。
自分はまだ若い、少なくとも自分は年寄りなんかじゃないと思えば、本当に年寄りでない気がします。生き方、考え方が若ければ、そういう生き方ができるし、ITやAIも含めて便利な世の中になっているので、なおのことそれが可能だからです。
そういうわけで、本書では「心が老いない」「心の若さを保つ」ということについて、私の考えることを書いてみました。
若い心をもっていたい(それだけで心が若いのですが)人のヒントになれば幸いです。
末筆になりますが、本書の編集の労をとってくださったワニブックスの内田克弥さんと夏谷隆治さんにこの場を借りて深謝いたします。
プロローグ 老化を固定する年齢呪縛
心の自由が奪われるとき
ある女性が新聞の人生相談にこんな悩みを寄せました。
「つき合っている男性に年齢を知られると退(ひ)かれてしまいそうで怖いです」
齢は隠すべきなのか、これからどうつき合っていけばいいのかという相談でしたが、回答者の中園ミホさんの返事は明快でした。
「退かれたらつき合うのはやめなさい」
齢で決めるような男にろくなのはいない。そんな男とわかったら、さっさと別れなさいというアドバイスです。
つき合っている女性の実年齢にこだわるような男は、相手の若々しさを素直に認めようとはしません。見た目が若いというのは本来、とてもいいことです。実年齢より若く見える人と向き合ったときに、「ああ、この人って齢を感じさせない若々しい人なんだな」と好感を持ったり好意を感じるのはごく自然なことになってくるはずです。
そういう自然な心の動きを、たとえば「30代前半だと思っていたけど、もう
40近いのか」と封じ込めてしまうのは、どう考えても不自然なことです。
なぜならいまの時代、実年齢ほど実感のないものはないからです。
自分が何歳かということは誰でも知っています。でもそれをふだん意識することは滅多にありません。年が改まったり誕生日が来たときに「ああ、〇〇歳になったんだな」と思うぐらいです。
高齢者で考えてみましょう。「もうこんな齢なんだから」と自分の実年齢を意識して暮らす人と、齢のことは忘れて好きなこと、やりたいことを追いかけて暮らす人がいます。どちらが毎日を楽しく、生き生きと暮らしているかは言うまでもありません。
実年齢を意識するというのは、実感のないものを持ち出してわざわざそれに自分を当てはめて暮らすことになります。生き方としてとても窮屈になってきます。
なぜそういう不自然な生き方をするかといえば、自分に枷(かせ)をはめようとするからではないでしょうか。手枷、足枷のように自由を束縛するものを心にもはめたほうが安心するからです。実年齢は手っ取り早い枷になります。「もう75歳なんだから」とか「80歳過ぎたんだから」と言い聞かせることで、さまざまな興味や願望を封じ込めることができます。心の自由を奪おうとする不思議な「おまじない」です。それがなぜ生まれるかと考えたとき、ふと浮かんだのが「年齢呪縛」という言葉でした。
心の老いが身体の老化を加速させる
「呪縛」という言葉は少し古めかしいですが、「まじないをかけて心の自由を奪うこと」です。もう少し具体的な説明をすれば「心理的な強制によって人間の自由を束縛すること」でもあります。つまり本来であれば、他者や社会が強制して個人の自由を束縛することです。たとえばコロナ社会のマスクや移動自粛こそまさに呪縛でした。
しかもコロナ社会は、周囲が強制しなくても自分からマスクをつけ、移動を禁じるようにまでなっていました。社会の呪縛が解けてきているのに、自分から解けたものをわざわざ縛り直すようになっていたのです。こうなるともう自縄自縛になります。
年齢呪縛も同じで、しばしば自分自身にまじないをかけてしまいます。実年齢を持ち出して「もういい齢じゃないか」と思い込むことで、心の自由を奪ってしまうのです。
先ほどの、つき合っている女性の齢を聞いて退いてしまう男もその一例でしょう。
それまでは「素敵だな」と思っていた女性の年齢を知ったとたんに、好意や好感を封じ込めてしまうのですからまさに呪縛です。
それが自分自身に向けられても同じです。
「もう80歳なんだから、わがままを言ってはいけない」とか「食べ物も質素にして着るものだって地味な色を選ばないと」とか、自分の願望をどんどん封じ込めてしまいます。
あるいは何事にも慎重になったり、「もう齢なんだから」と自分にブレーキをかけるようになります。心の自由も行動の自由もどんどん奪われてしまいます。
その結果、どうなるでしょうか。
老いがどんどん固定されてしまいます。年齢通りの高齢者になってしまうのです。自分から実年齢に合った生活スタイルを選ぶのですから当然のことです。
見た目の若々しさとか溌溂(はつらつ)さも消えてしまいます。何より日々の暮らしに楽しみがなくなっていくのですから、せっかく用意された人生終盤の自由な時間を不自由に過ごすしかなくなります。
わたしはこういう状態が「心の老い」だと思っています。
ところがこの老いに自分で気がつくことはありません。
心というのはそもそも曖昧で漠然とした世界ですから、その老化にも気がつかないことが多いのです。
これが身体の老化なら否応(いやおう)なしに気がつきます。はっきりした体力の衰えや能力の低下として表われますから、自覚しやすいし認めざるを得ないのです。「ああ、わたしも齢だな」という実感は身体の感覚を通して生まれてきます。
そういう実感、つまり身体の感覚を通して生まれた老いの自覚が心のブレーキをかけるということはあります。「無理しちゃいけないな」とか「齢相応の暮らしをしなくちゃ」といったブレーキです。
ところがここで、心の老いが始まっている人と、まだ心が若々しい人では同じ身体の老いでも受け止め方が違ってきます。「大人しく生きるしかない」と考える人と「楽しむならいまのうちだ」と考える人がいるからです。食べ物でも「質素にしなくちゃ」と考える人と「食べたいものを食べよう」と考える人がいます。
つまり同じように身体の老化が始まっても、心の若々しい人はいろいろなことにチャレンジできます。それが結果として身体の老化を食い止めることにもつながってくるのです。
心の老いが見た目の老いとなって表われる
老いが避けられない現実だということは誰でも理解しています。
同時に個人差が大きいこともほとんどの人が気づいています。
これはつくづく実感することですから、認めざるを得ないのです。
「なぜあの人はあんなに若々しいのか」
「同い年なのになぜ見た目の年齢差がこんなにも違うのか」
「仲間が集まるとなぜ老け込んだ人と若々しい人に分かれるのか」
「俳優や芸術家はなぜいつまでも若々しいのか」
誰もが抱いてしまうこういう素朴な疑問に対して、たいていの人は自分なりの答えを用意していると思います。とてもシンプルな答えです。
「気持ちが若い!」
この一語に尽きます。
気持ちが若いからファッションでも小物でも若々しいものを選びます。
気持ちが若いから行動も自由になります。
すると気分も浮き立ちます。いつも溌溂と動き回ることになります。
そういう人は女性でも男性でも華やかさがあるから目立ちます。若々しい人は目立つのです。どうしてもみんなの注目を集めます。
同じ年代の人が集まっても、老け込んだ人は目立たなくて若々しい人が目立ちます。
これはファッションや行動のせいだけではありません。若々しい人は思ったことをどんどん口にできる人です。自分がどう思われるかとか、間違ったら恥をかくとか、そんなことは気にしません。
自分の考えを飲み込んで黙っているより、はっきりと口にしてそれが非難されたり反対されたら、そのときのことだと考えます。とにかく心に浮かんでくるものを抑え込んだりしないのです。
老け込んだ人が目立たないのは、服装や姿が地味というだけではありません。若々しい人とは逆に、心に浮かんでくるものがあってもそれをまず抑え込もうとします。周囲にどう思われるかを考え、間違えて恥をかきたくないと慎重になります。目立たないように振る舞いますからどうしても地味な印象になります。つまり、心の老いが見た目の老いとなって表われるのです。
何のことはない、年齢呪縛が老化の原因だった
そう考えてくると、老化の原因は年齢呪縛、つまり自分の実年齢をいつも意識していることだと気がつきます。「わたしはもう○○歳なんだから」と意識するだけで心が萎縮(いしゅく)してしまい、分別とか齢相応の振る舞いや判断を自分に押しつけるようになります。
それが行動や生活スタイルを不自由にしたり、食生活を貧弱にさせたり血圧や血糖値の薬を常用させることにつながってきます。ここまでにわたしが唱えてきたような『80歳の壁』の大きな原因は、突き詰めていけば年齢呪縛にあったのです。
しかも年齢呪縛は、高齢になって始まることではありません。
「もう40代だから」とか「60歳になったんだから」と中高年のころから始まる人が大勢います。そのたびに意識していなかった年齢を意識するようになります。それがさまざまな計画や希望を抑え込もうとします。心の老いが、現実の人生をどんどん老化させてしまうのです。
だとすれば、いつまでも若々しい日々を楽しむコツはものすごく簡単で単純なことになってきます。自分の齢を忘れる、これだけです。
ただしこれは簡単なようで難しいことでもあります。
世の中や周囲は、ことごとくあなたの年齢を押しつけてくるからです。運転免許の高齢者講習がいい例です。「齢を考えなさい」とか「いつまでも若くないんだから」といった言葉だって、悪意はないとしても年齢を意識させようとする言葉です。
そして何よりも、自分自身が年齢を言い聞かせようとします。
趣味でも勉強でも遊びでも、何か新しいことを始めようと思ったときに「いくつになると思っているんだ」と諭そうとします。「この齢でいまさら」とか「カネの無駄だ」と年齢を言い聞かせます。
それによってふと湧いてきた高揚感、ドキドキしたりワクワクするような気分は消えてしまいます。それが寂しいかというと、そうとも言い切れないのです。
なぜなら自分で納得してしまうからです。
「そうだな、齢を考えないと」と納得し、思い留(とど)まったときには「バカなことをやらなくて良かった」と納得します。
「どうせ失敗したり途中で諦めたりするんだから、動かなくて正解だった」と安心するのです。つまり自分に年齢の枷をはめることで、安心感を手に入れることになります。年齢呪縛というのは、自分の年齢を思い出すことで安心・安全な選択ができる便利な方法でもあるのです。
呪縛から抜け出して心の自由を取り戻そう!
わたしはこの本で、年齢呪縛から抜け出す簡単な方法をいくつか紹介してみます。気がつけばつい、自分の年齢を意識したり言い聞かせたりするいまの生き方や考え方からどうすれば抜け出せるのかを考えてみます。
そのときいちばん大事になるのは、自由に生きたほうが気持ちいいし、楽だと気がつくことです。不自由を好む人はいないはずですから、心が求めるものに素直に従うだけでいいはずです。
ところがこの簡単なはずのことがなかなかできません。理由は不自由に慣らされてしまったからです。本文の中でも説明しますが、わたしたちはまだ若いころから、さまざまな不自由を受け入れてきました。
周囲に合わせなければいけない、わがままや自分勝手な行動はみんなの迷惑になると教えられてきたし、世の中の常識とか組織のルールのようにはっきりとした輪郭を見せないものにもいつも従ってきました。
もちろんその中には、守らなければ周囲に迷惑を掛けたりお互いが不快になるものもあります。けれども破ったからといって誰にも迷惑をかけないものもたくさん含まれています。たとえば職場で上司の判断やみんなの意見に反対しても決してルール違反ではありませんし、とくに迷惑でもないはずです。せいぜい議論が長引いて会議が遅くなるくらいのことです。
でも自分で反対意見を言わずに飲み込む人が大勢います。「嫌われる」とか「チームワークを乱す」と考えるからです。
その結果、心は不自由を感じたまま我慢するしかなくなります。言いたいことが言えないとか、やりたいことができないという場面はいくらでもあったはずです。
ところが、そういう心の不自由が逆に安心をもたらしてくれたのも事実です。そのたびに、「我慢しといて良かった」と胸をなでおろしてきたのです。
高齢になったらもう、そんな小さな安心は求めなくていいです。
もう束縛する組織もないし、家族のためとか仕事のためといった義務や責任もありません。自分が何歳で定年まであと何年とか、家のローンや子どもの教育費とか、あるいはポストに見合った成果や実績とか、一切考えなくていいのです。いままでに比べたらとことん自由になっています。
その自由を存分に楽しんでいいし、それが許される年齢なのです。自分の年齢を意識するとしたら「そうか、何をやってもいい齢なんだ」と気がつくだけでいいはずです。
心の自由を取り戻すことができる年齢なんだと気がついてください。
1章 実年齢には意味がないと気づこう
わたしたちは「こんなに若返っている」という一つの例
自分がある年齢に達したときに、たいていの人は「こんなものか」と思います。たとえば60歳の還暦を迎えたときです。
「60歳なんて爺さんだと思っていたけど、こんなものか。何も変わらないじゃないか」
これが本心だと思います。40歳でも50歳でも同じです。自分がいざその年齢になってみると「こんなものか」と拍子抜けします。「昔はいい齢だと思っていたけど、まだまだ若いじゃないか」と感じます。
なぜそう感じるのかといえば、ものすごく単純な理由が2つあります。
一つはまず、わたしたちが実際に若返っていることです。60歳を例に考えてみましょう。
かつて、定年が55歳だった時代には60歳といえばもう隠居暮らしで孫を相手にのんびり余生を送るというイメージでした。わたしはしばしばマンガ『サザエさん』に登場する波平さんを例に挙げてきましたが、波平さんがまさに
54歳で定年間近という設定です。いくら昭和20年代のマンガとはいっても、禿げ頭の波平さんがまだそんな年齢というのはいまのわたしたちにはピンときません。
『サザエさん』は昭和20年代の初めに始まったマンガですから、例えが古すぎると思うかもしれませんが、じつは定年に関して言えばそんなことはありません。日本の会社で定年が55歳から60歳に延びたのは1986年です。60歳未満の定年制が法律で禁止されたのは1994年のことです。決して古い話ではないのです。
現在はどうかといえば、希望する人は65歳までの雇用が義務化されています。再雇用や再就職で70歳過ぎて働く人は珍しくありません。60歳なんてまだバリバリの現役ということになります。実際にその年齢になっても「こんなものか」としか思えないのも当然です。
つまり、頭の中に「60歳=いい齢」という古臭いイメージが居座っていたから「こんなものか」と拍子抜けしたのでしょう。いざその年齢になってみて年齢呪縛が解けたのです。70歳でも80歳でも同じです。自分から「もういい齢だ」と言い聞かせているだけで、外見的にも体力的にもかつてとは比べものにならないくらい若返っているのです。
実年齢なんか意味のない時代になっている
わたしたちが実際にその年齢になったとき「こんなものか」と思うもう一つの理由があります。日本人の平均年齢が高くなったことです。
マンガの『サザエさん』は昭和20年代の東京が舞台でした。
当時の日本人の平均年齢は20代前半です。ちなみに1955年、昭和30年の平均年齢はおおよそ24歳でした。1980年でも30歳をわずかに超えたくらいです。
いまはどうかといえば、2020年のデータで49歳です。これは世界でも最高齢の平均年齢になっています。
平均年齢の若い社会では、その年齢を超えると年寄り扱いされてしまいます。平均年齢が20代前半だった時代には、30歳を超えるともう立派なおじさん、おばさんですし、50歳を越えたら老人と見なされるのが当たり前になってきます。
これを、平均年齢が50歳に近づいているいまの時代に当てはめればどうなるでしょうか。
40代50代なんか若者ですし、30歳なんて子ども扱いされてもおかしくありません。実際、アイドルタレントのイメージが残っている元ジャニーズグループ「嵐」のメンバーの平均年齢は40歳を超えています。SMAPになると
50歳です。
年齢だけを考えると昔ならみんな中年のおじさんですが、いまの日本人の平均年齢を思い出せば納得します。彼らがまだまだ若いのは当たり前のことで、かつてに当てはめればまだ20代の若者で通る世代でしかないのです。
出生率が減少して子どもの数が減り、80代90代でも元気な高齢者が増えてくれば平均年齢がどんどん高くなっているのは当然のことなのですが、70代のように人口の多い年齢層の中にいると、そのことにはなかなか気がつきません。
「オレはもう75歳だから後期高齢者か」とか「齢を考えるともう無茶はできないな」とか、高齢者の仲間入りしたことばかり意識しがちです。
ところがひょいと世の中を見渡せば、まだ若者だと思っていた世代だって40
代50 代と年老いてきているのです。でも彼らや彼女たちに老いのイメージなんかありません。アイドルグループの嵐が40代とわかってもただ驚くだけです。
そこで驚くくらいなら、「実年齢なんてもう意味がない時代なんだな」と気がつくべきでしょう。「オレだってまだ60代としか見られない」「わたしだって80歳だと言うと驚かれる」……そんな経験を持つ高齢者は大勢いるはずです。
見た目や印象の若々しさは、実年齢より優先します。
若々しく見えるというのはとてもいいことだし、嬉しいことです。そう見られるということを素直に喜んでいいはずです。年齢呪縛から軽々と抜け出して心の自由を取り戻した人が長い高齢期を思う存分に楽しむことができます。いまはそういう時代なんだと気がついてください。
ホワイトカラーが80代になっても老人に括られてしまう不自然
いまの70代80代について、たいていの人が忘れていることがあります。
とくに男性の場合ですが、彼らは昭和末期の経済成長がピークに達していたころに現役のサラリーマンだったということです。
バブル景気もありましたが、昭和60年代はサラリーマンが遊びまくった時代です。高級レストランやクラブに出入りし、ブランドのスーツを身につけ、車も高級車を乗り回しました。ビジネスで海外にもどんどん出かけています。実質賃金が上がらず、不景気で先の読めないいまの時代に比べれば、おカネを使いまくってエネルギッシュに生きていたのです。
あのころの40代、つまりいちばん働き盛りの世代が、いまの70代80代です。
そういう世代が、「もう齢だから」と大人しく暮らせるでしょうか。
年金暮らしだからといって、節約だけを言い聞かせて閉じこもって暮らせるでしょうか。
つまらないテレビを遅い時間までじっと我慢して見続けるでしょうか。
三度の食事を家の中で夫婦向き合って摂ることができるでしょうか。
仮にそういう生活を守っているとしても、心は窮屈で不自由なままでしょう。80 歳だから我慢しなくちゃと言い聞かせても、心は「好きにさせてくれ!」と叫んでいるはずです。
好きにしていいのです。
心が望むままに自由に生きていいのです。
そもそも80代になったからといって昭和世代のホワイトカラーを老人や高齢者という言葉で括ってしまうことに無理があるとわたしは思っています。年齢呪縛なんか軽々とふりほどいてください。
続きが気になった方は、製品版にてお楽しみください。
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