目立ちたくなかった過去、貪欲さを隠したくない現在、そして未来。 酒井高徳『W ~ダブル~ - 人とは違う、それでもいい -』本文試し読み
お盆休みも真っ只中の日本に、“酒井高徳選手、Jリーグ復帰”のニュースが飛び込んできました。
海外でプレーしてきた酒井選手の、日本での活躍に期待が集まる今だから読んでほしい1冊。
日本人初のブンデスリーガ・キャプテンになった男が綴る衝撃の苦悩と原点。
今回は『W ~ダブル~ - 人とは違う、それでもいい -』(著:酒井高徳)の試し読みを公開します!
***
プロローグ
日曜日のドイツは静かだ。
特に気温の下がる冬はその静けさが増すような気がする。冷たい空気が肌をつくからかもしれない。
曇った空からたまに射す陽の光はまぶしく、降り積った雪がキラキラと輝いている。
ピンと張り詰めた空気を伝わり、教会の鐘の音や子どもたちの声がいつも以上に響く。雪を踏みしめる音でさえ、ギシギシと身体の中をこだまする。
僕はそんなドイツの静かな週末が好きだ。
ドイツでは、日曜日は休日と決まっている。もちろん、僕らサッカー選手は試合を戦うこともあるし、練習が実施されることもあるけれど、多くの人々にとっては休日だ。だから、ほとんどの商店が営業をしていない。スーパーマーケットも衣料品店も家電量販店もパン屋も肉屋も八百屋も閉まっている。日本にあるような24時間休まず営業するコンビニエンスストアはもともとドイツにはないし、あっても日曜日は休むだろう。
最近は大きな鉄道駅にあるドラッグストアが営業するようにはなったけれど、それでも少数派だ。唯一、通常営業を続けているのはレストランくらいだろうか?
だから、日曜日にショッピングはできない。休日に買い物がしたければ土曜日にすればいい。日曜日はただゆっくりと流れる時間を楽しむ……。それがドイツの週末だ。
サッカー観戦に足を運ぶだけでなく、自分自身がスポーツに興じる。公園などで、ジョギングやウォーキング、ピクニックなどそれぞれに休日を満喫する。親戚や家族の家を訪問することもあるだろうし、シャッターが下りた商店街を歩き散歩を楽しむ家族も少なくない。
尽きることのない会話を重ねている姿もまた温かい。
仕事や時間に追われることのないホンモノの休日だからだ。自分や自分の家族、自分の人生のためにその時間を使う。「休む」というただそれだけを贅沢に味わっている。
そんなドイツの週末に欠かせないものといえば、ビールとサッカーだ。英国のプレミアリーグ以上にドイツのブンデスリーガには女性客も多いと思う。2部のクラブでも毎試合3万人くらいの観客でスタンドが埋め尽くされる。日本ではちょっと想像できないような光景があり、それは歴史が作ってきたものだ。
ブンデスリーガでは外国人選手数を制限するルールがないから多くの国の選手が所属している。EU圏を中心とした西ヨーロッパ、東ヨーロッパに加え、アフリカ、南米、北米そしてアジア。ピッチに立つ選手たちの国籍を並べれば、世界の縮図──というのは大袈裟だとしても、かなりの国の名前が並ぶだろう。だからロッカールームは多国籍軍といった風情だ。現地語のドイツ語だけでなく、英語が公用語というクラブもある。
使い古されてきた言葉だけれど、文字通り、肌や瞳、髪の色に関係なく、国境や文化、国籍を越えて、ひとつのチームとなり、サッカーボールを追う。そんなブンデスリーガの姿は、ドイツという国そのものだと感じている。
第2次世界大戦敗戦後、ドイツは数多くの難民や移民を受け入れ、彼らに仕事と教育の機会を与えた。小中高だけでなく、大学も授業料が基本的には無料だが、それは留学生も同じ。だから、これまでたくさんの外国人が暮らしてきた(もちろん今も)。彼らの出身地もピッチと同様、欧州各国に限らず、アジア、アフリカ、北中米アメリカや中東などと広範囲になる。ドイツで暮らしドイツ人として子どもを育てる。そして彼らは、「×××系ドイツ人」と呼ばれるようになった。
2012年1月にドイツで仕事を始めてから、8年目を迎え僕は今、「日本系ドイツ人」として暮らしている。
僕のルーツからいえば、「ドイツにルーツを持つ日本人」である「ドイツ系日本人」のほうがふさわしいのかもしれないけれど、実はあまりしっくりこない。というのも、僕はドイツでやっと、自分が抱えてきたコンプレックス、心のわだかまり、澱(膿)のようなものを消し去ることができ、今になってようやく「僕はドイツ人だからさ」となんのわだかまりもなくいえるようになったからだ。だから、「日本にルーツを持つドイツ人」という表現がふさわしいんだと思っている。
たとえば、学生時代の僕を知る人が、今の僕の姿を見たら、「そんなに社交的な人間だったっけ?」ととても驚くに違いない。
もちろん、日本にいた頃から、家族や仲のいい友だちを前にすれば、心を許し、冗談をいい合ったり、明るくて楽しい「酒井高徳」でいられた。しかしそれは本当にわずかな人間の前だけだったし、限られた時間だった。
それ以外の多くの時間、特にまだ強さをまったく身につけていなかった幼い頃の僕は、内気な子どもだった。誰かと出会うとまず先に、緊張で身体がこわばるように心を固く閉ざした。
僕は新潟県出身の父とドイツ出身の母の間に生まれた。いわゆるハーフだ。僕が育った新潟の三条市には、当時、そういう家庭の子どもはほとんどいなかった。
「僕に声をかけてくれる人間は、僕の外見を珍しがっているから。僕がハーフだから。みんなとは違う髪と瞳の色だから」
ずっとそう思っていた。
ハーフであることをメリットだと思ったことは一度もなかった。
それは被害妄想でもなんでもなく(加害者から見れば、『被害者意識の強い妄想』となるかもしれないけど)、僕は集団生活を始めた幼稚園の頃から、故意ではない子どもたちの言動に傷ついてきた。どんな行為をされたとか、どんな言葉を投げつけられたとか具体的な記憶はない。幼いながらに消し去ろうとしたからかもしれない。でも、ずっとその体験は「経験」として僕の人生に刻まれてきた。
だから、ひとりでいるほうがずっと楽しい。そんな子どもになった。
徐々に仲間が増えて、サッカーを始めて、「ハーフ」であること以上に「サッカー」で認められるようになり、僕が抱えていたコンプレックスが薄らぐこともあったが、それでも忘れた頃にまた傷つけられた。10代の間はずっとそんな感じだった。
そしてドイツへ来て、僕の見た目は特別なものではなくなった。
どんな見た目でも、髪や目や肌が何色であっても、ドイツの人々はさほど気にしない。ひとりの人間としての「酒井高徳」と向き合ってくれる。
こちらの人は誰かと話をする時、しっかりと相手の目を見る。日本人的には「そんなに見つめないでくれ」と思うほど強い瞳で見抜く。僕もドイツでそんなふうに見つめられ、言葉を交わし、時を過ごしてきた。チームメイトから、監督から、町の人から、レストランの店主から、友人から……そういう時間がどんどん「酒井高徳」を掘り起こしてくれたような気がする。ドイツ人を母に持つハーフの酒井高徳ではなく、日本人を父に持つ酒井高徳でもなく、ただひとりの男としての「酒井高徳」を。
そうして、僕は「酒井高徳」になった。
ドイツ人というか、日本人以外の多くの国の人たちは、自己主張が激しく、自分の非さえ認めようとしないこともある(自分の非を他人に押しつける人だっている)。そういう相手にはこちらも猛然と戦う。黙っていたらいわれっぱなしだから。
そんな人たちの中で暮らし、僕は思う。
人間の数だけ人生があり、物語があり、ルーツがあり、哲学があり、生き方があり、感情があり、想いがあって当然だ。好きなものや嫌いなものだってさまざまだ。自分の非を認められないのは、それに気づく力がないからかもしれない。相手を尊重する力や協調性やそのための能力がないのも、彼(彼女)のネガティブな個性といえる(それも僕がそう感じるだけで、別の誰かにとっては気にすることではないのかもしれないけど)。
自分の考えとは違う人間の存在を受け入れる。それをドイツに来て学んだ。
同時に欠点だと思っていたことも、見方を変えれば(見る人が変われば)長所になることにも気づき、仕事をするうえで大いに役立った。
自分や自分たちと違うものを「否定」する環境の中で、幼少期の僕は育った。
「よく頑張ったよ」と幼い高徳にそう声をかけて、ねぎらいたい。
でも、同時に思う。
あの頃から、今のようにオープンな性格であったなら、僕の人生はまた違ったものになっただろうと。たくさんの友だちを作り、出会いがあって、チャンスを得られたかもしれない。人との交流はチャンスだけでなく、自分の可能性を広げてもくれるから。
心を閉ざしていた時間が「もったいなかったな」という想いは当然ある。無駄なコンプレックスに悩まされずにいれば、伸び伸びと成長できたかもしれないとも思う。
けれど、スポーツの世界に「たられば」が通用しないのと同じで、人生においても「たられば」をいっても意味がない。僕の人生を歩んだから、今の「酒井高徳」がいる。元日本代表でブンデスリーガ。「これ以上を望んだらばちが当たる」という人がいるかもしれない。でも、「もっともっと」と思ってしまう自分の貪欲さを隠したくはない。それが成長の源だから。
今では、日本でも、スポーツ界や芸能界だけでなく、ルーツが違う両親を持つ人たちが認められる社会になってきた。純粋にそれは嬉しい。しかし、「ハーフ」という代名詞が僕は好きにはなれない。僕は半分ではなく、ひとりの日本人であり、ひとりのドイツ人である。いうなれば「ダブル」だ。「外人」が「外国人」となったように「ハーフ」という呼び方にも変化が生まれてほしいなと僕は思う。
***
第一章 ダブル
どうして僕だけ、みんなと違うの?
「僕は家にいるよ。幼稚園、休む」
「どうして?」
「どうしても。幼稚園には行きたくない!」
「行かなくちゃいけないのよ」
「行かないよ。行きたくない」
「どうして?」
幼少期の記憶。
母に何度理由を聞かれても、その理由を言葉にすることはできない。ただ「行きたくない」と繰り返す僕に母は、困った顔を浮かべる。僕はどうしても、幼稚園に行くのが嫌だった。それでも、引っ張られるようにして、毎日幼稚園へ行くしかなかった。そして、たったひとり、迎えが来るのを待っているしか僕にはできなかった。
「お前は毎日、『行きたくない』と泣き叫んでいたんだから」と大人になった僕に母は笑いながら話してくれる。泣き叫んでいた記憶はないが、幼稚園が嫌いだったことは今でも強く覚えている。
そして、その理由も今なら説明できる。
僕が他の子どもたちと違っていたからだ。髪の色は金色で、瞳の色は青い。どっからどう見ても、僕だけ違っていた。鏡を見れば一目瞭然だ。
「外人ってどういうこと?」
「ハーフってどういう意味?」
幼稚園の子どもたちに投げかけられる言葉の意味を母に問うた。僕と同じ色の髪と瞳をした母の表情を曇らせるだけの質問だということも、子どもだった僕にはわからなかった。
毎朝鏡を見て、誰とも「違う」ということを罪のように思い、閉鎖された社会(幼稚園)へと向かうしかなかった。
「どうして、僕だけ、みんなと違うの?」
好奇な目で見られる理由は、「みんなと違うから」だと納得しながら、僕はどんどん心を閉ざしていった。
実際、幼稚園児がどんな言葉を投げつけてきたのか? そしてどういう行為によって、僕が傷つけられたのか? 細かい記憶があるわけではない。けれど、友だちと呼ばれる子どもたちが僕との間に築いた壁の存在は、幼稚園児ながら自覚していた。だから、そこへ行きたくなかった。もちろん、友人たちに悪意があったわけではないだろうけれど。
日本人の父とドイツ人の母のもと、僕は1991年にアメリカのニューヨーク州で生まれ、2歳の時、父の故郷である新潟県三条市に移った。1歳上に兄・高喜(ごうひ)、2歳下に弟・宣福(のりよし)がいる。一番下の弟、高聖(ごうそん)が生まれた時に、兄弟で「ゴウがつく名前にするなら、悟空にしようよ」といい合ったことを覚えている。僕は5歳だった。
今でこそ、両親のルーツが異なる子どもたちは多いし、スポーツ界や芸能界などで活躍する人たちもいて「ハーフ」という言葉にも馴染みがあるだろう。そして、「ハーフだからカッコいい」なんていわれる人たちもいる。しかし、90年代半ばのしかも地方都市では、まだまだその存在は異質なものでしかなかったんだと思う。特に子どもにとっては奇異に映ったはずだ。
しかも兄弟の中で唯一、僕だけが、髪の色がブロンドだった(年齢を重ねて、その色は濃くなっていった)。だから、「ハーフ」や「外人」という言葉を投げつけられたのだろう。
目立ちたくなかった
それは小学校に進級してからも変わらなかった。
さすがに、泣いて行くのを嫌がりはしなかったけれど、入学当初は学校へ行ったところで楽しいことがあった記憶がない。クラスメートとは挨拶くらいはしたけれど、声をかけられても曖昧にうなずくとか、笑ってやり過ごすだけだった。たとえ好意的な言葉だったとしてもそれに対してどう応じていいのか、僕にはわからなかったから。
10歳に満たない子どもにも社会はあるんだと思う。そういう集団生活に身を投じた時、僕は無力だった。人とは違う外見に思い悩み、コンプレックスとして受け入れることで、日々を諦めていた。誰も僕のことなんて理解できないと。だから、周囲の人間とはいつも距離をとった。
とにかく目立ちたくなかった。
毎朝授業の前に実施されるドッジボールでも、活躍したくなかった。目立てばきっと「ハーフ」とか、「外人」といわれる。そうやって珍しがられることは、僕にとっては、悪口をいわれることと同じだった。
「どうして、人と違うことがダメなんだ。悲観する必要も否定することもないじゃないか」
父は何度も何度もそういって、何事にも消極的な僕の背中を押そうとしてくれた。でも、当時の僕にとっては、その言葉は厳しさの象徴でしかなかったし、叱咤されているとしか感じなかった。「父さんはみんなと同じなんだから、僕の気持ちなんてわかるわけない」と思うこともあった。
僕は学校では孤独だった。だけど、幼かった僕はその孤独すら、よくわからなかった。孤独が嫌だから友だちを作ろうというふうには思わなかった。逆に早くひとりになりたかった。学校でのこの嫌な時間が過ぎていくのを待つだけだ。幼稚園同様に小学校低学年時代に良い思い出はほとんどない。
もちろん、その当時の環境やクラスメートたちを責める気にはならない。ただ、僕自身が非力だったからだ。父がいうように「違うことのなにが悪いんだ」と思えていたら、きっと僕は多くの出会いやチャンスを手にできていただろう。僕が恵まれない幼少期を過ごしたのは、心を閉ざし、壁を築いた僕に責任がある。しかし、当時はそんなふうに思う余裕なんて、一切なかった。兄弟たちも同じ想いをしているんじゃないかと考えることもできなかったのだから。
のびきったカエルとサッカー
そんな僕の唯一の楽しみは、下校後、ひとりで遊ぶことだった。
といっても家の中での遊びじゃない。外でのひとり遊びだ。生き物が大好きだった僕は、用水路でザリガニを、公園で虫を探して捕った。学校では見せることのないアクティブな姿で走り回り、ポケットにダンゴ虫やカエルを入れた。もちろん、家で飼うためだ。虫取り網や籠なんて用意していなかった。しかし、たいてい、家に帰るとそれを忘れてしまう。洗濯をする時、僕の服のポケットの中身に気づいた母が悲鳴をあげる……ということが何度もあった。
カエルと入浴する幼い僕の写真が今でも残っている。得意気な僕と湯舟のなかでグターとのびきっているカエル。人肌でもやけどするといわれるカエルだから無理もない。
なにか特別なことを書きたいわけでは決してない。ただ、僕の日々はそんな感じだった。
そして、そうしたものを解決してくれた大きな出来事──といった物語がここから始まるわけでもない。ただ少しずつ現実に慣れていった。いわゆる時間が解決してくれたということだ。クラス替えなどの大きな変化がない限り、「珍しがられるから恥ずかしい」という感覚も和らいでいった。
小学五年生になると、部活動がスタートする。体格は小さかったけれど、身体を動かすのが得意だった僕は、とにかくいろんなスポーツをやっていたから、なにか運動部に入りたいと思っていた。そこで選んだのがサッカーだった。
2002年のワールドカップ日韓大会で、新潟がその開催地に選ばれたのが1996年。アルビレックス新潟がJ2リーグに昇格したのが1999年。しかし、僕がサッカーを始めたのは、そんなサッカーへの機運の高まりが理由ではなく、ごくありふれたものだった。
近所に住み、僕ら兄弟が「お兄ちゃん」と慕っていた幼馴染みの存在がきっかけだった(当時、実の兄はインドアタイプで、アウトドア派の僕とは好みが違っていた)。家の近くでサッカーの練習をしていた「お兄ちゃん」が、「いっしょにやるか」と声をかけてくれて、面白半分でボールを拾ったり、蹴ったりしたのが始まりだ。
ワールドカップのことも、アルビレックス新潟のことも、Jリーグのことも、代表のこともなにも知らず、ルールさえほとんど知らなかった。ただ、他のスポーツよりも多少サッカーに興味あったというだけで、サッカークラブへの入部を決めた。
サッカー部員といっても練習は週に一度しかない。ほとんど趣味みたいなもので、練習が終われば、ワイワイいい合って解散。今思うと、レクリエーションの延長みたいな集まりだった。少し物足りなさを感じていた僕は、放課後、家の近所で壁打ちをしたり、河原にあるグラウンドでボールを蹴った。そういう時は弟の宣福といっしょだった。ふたりで壁打ちをしていた壁が壊れてしまった記憶もある。最後の一撃は宣福が蹴ったのだが、僕自身もそこへボールを蹴り続けていたから、責任を感じた。
自主練習をやっていたのは、サッカーが好きとかそういうことよりも、どうしても解決できない疑問を解きたかったからだ。
初めての勇気
「(幼馴染みの)お兄ちゃんが蹴るとボールはあんなに遠くへ飛ぶのに、どうして僕が蹴ったボールは飛ばないのか?」
お兄ちゃんみたいにボールを蹴りたいと思い、何度も何度も蹴るけれど、上手くいかない。監督もコーチも先輩もおらず、お兄ちゃんの蹴り方を盗むというような知恵もなかった。だから、身体の大きさがその理由という答えにもたどり着けず、ひたすら蹴るしかなかった。でも、それだけのことが案外僕には面白かった。気が向くとボールを持って出かけるようになっていた。
「マジかぁ。サッカーできないじゃん」
ある日、いつもの河川敷のグラウンドへ出かけたものの、その日は見たことのないチームがそこで練習をしていた。ボールを蹴る場所がない。しかたがないので、土手に腰を下ろして、ぼんやりとそのチームのサッカーを見ていた。
「サッカーをやりに来たのか?」
耳慣れない声が聞こえ、振り向くとそこにひとりの男性が立っていた。
「うん。でも、グラウンド空いてないから、帰ろうと思ってる」
人見知りのはずの僕は、なんのためらいも警戒心もなく、そう答える。
「サッカー、好きなのか?」と質問が続く。
「好きっていうか、結構やってるかなぁ。学校のクラブに入ってやってるから」(こんな時に「サッカーが大好き!」と無邪気にいえないのが、僕だった)
するとその男性はさらに質問を重ねた。
「うちは三条サッカースポーツ少年団というのをやっているんだけど、知ってるか?」
「知らない」
「お前どこの学校だ」
「大崎です」
「そこだったら、何人かうちの少年団にも来てるよ。松本裕って知ってるか?」
「うん。名前は知ってる」
「じゃあ、松本に聞いてみろ。もしも、サッカーが好きだったら、うちでいっしょにやろう」
そういって、その男性(少年団の指導者であることがのちにわかる)は、一枚の紙を僕に渡し、その場を去った。それは少年団の入団案内書だった。
「月謝、高いなぁ」
入団案内書を見た父の反応は、想像通りだった。自分がそれほど裕福な家の子ではないことは、10歳の僕にも理解できていた。サッカー少年団もいってしまえば習い事で、子どもに習い事をさせる余裕があるとはとても思えない。それでも父の話はそこで終わらなかった。
「お前は、本当にサッカーをやりたいのか?」
幼心に、僕の気持ちをきちんと確認したいという、父の想いが伝わってきた。
「僕にもまだわからない……明日、その少年団にいる学校の友だちに聞いてみるよ」
あの時の父の表情は今でも覚えている。その真剣なまなざしが、無邪気に答えられる話じゃない、と感じた記憶があるからだ。
「友だち」といったものの、実際は友だちとは呼べない相手だった。松本くんは別のクラスにいる子で、一度も話したことがなかったからだ。にもかかわらず、僕はなんと、次の日、松本くんのいるクラスへ向かったのだ。
「松本くんいる?」
教室の入り口にたむろしていた人間にそう声をかけた。目立ちたくないと生きてきた僕にとってはかなり思い切った行動だった。しばらくするとその松本くんが姿を見せた。
「サッカー少年団に入ってるでしょ?」「うん」「昨日ね。僕、入らないかって誘われたんだけど……」ということまで伝えたが、次の言葉が見つからない。一瞬言葉に詰まりそうになったが、間髪いれず、僕の言葉にかぶせるような勢いで「ホント? じゃあ、いっしょにやろうよ!」と松本くんが誘ってくれた。心が跳ねる。初対面の人間が僕を誘ってくれた。しかもそこには僕の外見についての「アレコレ」が一切なかった。純粋に「サッカーやろう」といってくれていることが伝わってきたから、嬉しかった。
「楽しい?」「めっちゃ楽しいよ」「じゃあ、お父さんに聞いてみるよ」
初めて会ったというのに、会話が自然に転がっていった。
家に帰り、父に報告した。
「友だちに聞いてみたよ。僕、やってみたいって思ってる」
松本くんを友だちと呼ぶことに抵抗はなかった。
「そうか。じゃあ、やってもいい。だけど、お父さんは仕事があるし、お母さんは運転ができないから、練習や試合会場への送り迎えができないんだ。誰かやってくれる人いればいいんだけどな……」
父は残念そうな顔で答えた。僕の中で膨らんだ期待がジワジワと萎んでいった。解決策なんて、なにも思い浮かばない。とっさに脳裏をよぎったのは、ここで僕がため息をつくと、きっと両親が悲しむだろう、ということだった。
「そうだよね、うん。わかった」
努めて明るく答えた。
翌日、松本くんに事情を話すと、松本くんは名案を口にした。
「だったら、うちの車に乗ればいいじゃん。いっしょに行って帰ってくれば問題ないでしょ?」
帰宅すると松本くんの親御さんから、「気兼ねすることなく、うちの車に乗ってください。是非少年団に来てください」という電話が入り、「それではお言葉に甘えさせてください。よろしくお願いします」という父の言葉で、僕のサッカー少年団生活がスタートする。
少年団に入ったのが小学五年生というのは、僕らの世代でも遅いほうだと思う。始めるのに早いも遅いもないが、僕の場合、このタイミングを逃していたら、自分の熱はサッカーとはまったく別のことに注がれていたに違いなかった。サッカーは「好きというわけじゃないけど、やっています」という「趣味」のままで終わったはずだ。
あの日、グラウンドで「サッカーが好きか」と問われて、「好き」といえなかったのは、自分がサッカーに対して抱いている感情がまだ理解できていなかったからだと思う。プレーすることの面白さと好きという感情はまた別ものだったのかもしれない。
ただ、河原で少年団の指導者から、たくさんの選手がいることや、練習、試合の話を聞くうちに、僕の好奇心はどんどんくすぐられ、サッカーへの熱が引っ張り出された。だから、ずっと人と関わりたくなかったのに、別のクラスの松本くんに会いに行くという行動力を発揮できた。──松本くんとの出会いは運命に近かった。この日から中学三年までの長い間、いっしょにサッカーをし、フォワードの僕とボランチの松本くんは、ホットラインを築くことになる。
松本くんのご両親にはずっと送り迎えをしてもらった。僕の家と松本くんの家は車でも15分から20分くらいかかる距離にあった。松本くんのご両親の好意がなければ、僕のサッカー選手としての道は完全に閉ざされていたはずだった。その少年団で、僕はサッカーを大好きになり、今に続いているのだから、松本くん一家は大恩人だ。
それに、──どういう理由でそこにいたのか、確かめたことがないので知らないけれど──ボールを持って土手に座る僕に声をかけてくれた指導者の方にも感謝している。
他人との関わりが苦手だった僕が人を通してサッカーと出会った。そしてそれを媒介に、「ダブル」を壁としか思えなかった僕が、自分のルーツをかけがえのないモノとして認識できるようになったのだから。
当時の僕はまだ気がついていなかったけれど、今考えると、僕のサッカー人生は、松本家の人たちをはじめ、たくさんの人間によって支えられてきた。いわゆる「縁に恵まれる」ということだ。
続いて僕の扉を開く手助けをしてくれたのが、ゴーラム・レザー・アクラギィさんだった。元イランのフットサル代表だったレザーさんは当時、三条市内の強豪、レザーFSジュニアというチームの監督をしていた。中学三年生からそのチームへ移籍する僕の家と、彼の家は近所だった。送り迎えをしてくれる人は監督へと変わっていた。
転校や転居がないのに、中学三年で所属チームを変わる(移籍)というのは、あまりない話だろう。それでも僕はそれを決断した。前所属のチームメイトからは強く慰留されたが、決意は変わらなかった。もっと上手く、強くなるためには、環境を変えるべきだと悟ったからだった。それほどまでに、僕はサッカーに熱中するようになっていたわけだ。
「県選抜」セレクション不合格のわけ
少年団での話をもう少し続ける。
三条サッカースポーツ少年団に加入した僕は、インサイドキックといった基礎練習から始めた。スタートが遅いぶん、技術力はチームメイトと比べたら劣っていたけれど、足の速さは、チームの中でも指折りだった。その持ち前のスピードを活かして、──技術はなくとも──フォワードとして試合で活躍することができた。ディフェンスラインの裏ばかりを狙っているフォワードだった。
そんな僕に絶妙なパスを供給してくれたのが、松本くんだった。
僕らは揃って、地元の大崎中学へ進学し、サッカー部に入った。当時県央地域(新潟県中央地域の三条市、燕市、加茂市などを中心としたエリア)には中学生がプレーするクラブチームがほとんどなく、部活でサッカーを続けるのが自然な流れだったし、松本くんとともにプレーを続けることもまた、当然の流れだと思っていた。
僕が他の人とちょっと違ったのは、Jリーグはおろか日本代表や海外サッカーに対してもほとんど関心がなかったことだ。憧れの選手もいなかった。どうすれば上手く裏を抜けられるのか、ゴールを決められるかは、独学で身につけた。誰かを真似るほど選手のことを知らなかったのもあるが、自分のことにしか興味がなかったのだろう。テクニックを紹介したサッカー雑誌を穴が開くほど読み込んだ。
ゴールを決めることが気持ち良く、サッカーがどんどん好きになっていく。三条市内では有名なゴールゲッターとなった僕は、県央選抜チームにも選ばれていた。
「次に目指すのは県選抜だ」
どんどん上を目指したい、という感覚が強く芽生え始めた。
県内にあるいくつかの地域選抜チームに選ばれた選手の中から、コーチの推薦などをへて選ばれた選手が県選抜チームへのセレクションを受けることができた。中学一年生の時点で、そのセレクションを受ける許可をもらえていた僕の自信は漲っていた。
「高徳、県選抜のセレクション、もう終わったんだな」
ある日、父が、一通の封筒を手にしていった。
「セレクション? 終わってないよ。僕受けてないもん」
「おかしいな。さっき、不合格通知が届いたんだけど」
「えぇっ!? どういうこと? なんでテストも受けていないのに、不合格なの? テスト終わっちゃたの? なんで教えてくれなかったんだよ!」
もうその時点で僕の声は涙声に変わっていた。
「お前、セレクションがいつか知ってるか?」
「いつって……、それが書いた紙あったじゃん。父さんに渡したでしょ?」
「父さんは預かってないよ。お前、なくしたんじゃないのか?」
「僕はなくしてないよ。父さんがなくしたんだよ!」
僕は止まらない涙を気にすることなく、怒りを父にぶつけた。受験をしなかったら、不合格になるのは当然だ。
「自分のミスを他人に押しつけるな!」
最初は優しい言葉で対応してくれていた父だったが、僕がいつまでも父に怒りをぶつけ続けるから、最後は一喝するしかなかった。
この書類紛失事件が僕の「県選抜」への想いに拍車をかける。「次こそは必ず、受かってやる」と(実際は「次こそは必ずセレクションへ行く」が正しいのだけれど)。
土手から聞こえた父親の怒号
1年後、中学二年生になってようやく、僕は県選抜チームに選ばれることになった。
意気揚々とトレーニングに向かったが、ここで昔の悪い癖が出始めていた。「ダブル」の壁だ。
正確にいえば、サッカーを始めてからも、その壁にぶつかることは幾度となくあった。ただ、重ねた年齢とサッカーとの出会いが、壁を意識する時間を減らしてくれていた。
「ダブル」の壁は、初めて人と会う、なにかをする、といった時によく顔を出した。
また「外人」だ「ハーフ」だといわれて嘲笑されるかもしれない──。
だから県選抜のトレーニング初日も、誰より早く練習場所へ行った。あとから自分がそこへ入って行くよりも、チームメイトを迎え入れるほうが、まだ目立たないんじゃないか、と考えたからだ。ただそれもあまり効果はなかった。
「こんにちは」「こんにちは」「あれ? ハーフなの?」「そうだよ」
いつも県選抜に選ばれている「常連選手」たちが、新入り選手を品定めするようなそんな会話が続いた。
そう簡単に受け入れられるわけもない。
あとから練習場にやってきた選手の「あれ、外人いたっけ?」とささやくような声も聞こえていた。
「ダブル」はまさに壁となって僕の前に立ちはだかっていた。
練習が始まる前のこと。選手たちはいくつかのグループに分かれて、ボールと戯れていた。僕と同じく初めて選ばれた選手で、知り合いがいない子たちも自然とその輪に加わっている。でも、僕にはそれができなかった。僕はひとりでボールを蹴っていた。
人見知りで、恥ずかしがり屋。こういうシチュエーションには慣れている、そういい聞かせていたし、実際慣れていたと思う。
そんな気持ちに拍車をかけるような、驚きの一言が聞こえたのはこの直後だった。
「高徳~!! お前もみんなといっしょにボールを蹴れよ!」
「そんなんじゃ、受かるものも受からないだろう!」
河川敷にあるグラウンドに向かい、土手に座った男性の大きな声が響き渡る。
「あの叫んでるおっさん、誰だよ」
ボールを蹴るのをやめて、グラウンドにいた選手たちが一斉に土手を見上げた。
そして、声がするほうへと視線を移した僕は、思わずはき捨てた。
「マジかよ」
父だった。この日はたまたま仕事が休みで、車で送ってくれたのだ。
「どうして、ひとりなんだ。みんなとやらなきゃダメだろう」
父が叫び続ける。だから、僕は「いいんだよこれで」といい返したが、それでも父が納得するわけもない。「いいわけないだろう!」と声が聞こえる。
「あのさ、いっしょにやろうよ。お前の父さん、めっちゃ怒ってるじゃん」
最後には、気を使ったチームメイトが誘ってくれた。
帰りの車の中でも父は怒っていた。
「仲間とコミュニケーションをとれない人間が、これから先もサッカーを続けられると思うなよ」
そんな父の言葉は間違ってはいない。コミュニケーションは非常に大事なことだ。でも、この時の僕はただただ恥ずかしいだけだった。
人生においてあんなに恥ずかしい気持ちになったのは初めてだったから、アドバイスのありがたさよりも、「なんでみんなの前で叫ぶんだよ、マジ勘弁してくれよ」といった若者特有の「想い」のほうが強かった。
中学生だった当時、思春期にはたまらない愛情表現だった。
親の気持ちは自分が親になった今、痛いほどわかる。父がああやって大声を出してくれたおかげで、チームの輪に入れたことも事実だ。
父からしてみれば、子どもの頃からひとりで遊んでばかりいた僕が、サッカーというチームスポーツの中で力を発揮できているか、心配だったのかもしれない。そして、最初のセレクションで、その開催日を書いた紙をなくし、不合格通知が届いた時に大泣きした僕のサッカーに賭ける気持ちを知っているからこそのアドバイスだったに違いない。
「送り迎えはできないよ」
サッカーを始めた時、そういった父は、その言葉通り、仕事が忙しく、僕の試合を見に来ることもなかった。しかし、サッカーに対して厳しい父だったことは間違いない。
練習や試合で上手くいかなかったり、負けてしまった時、帰宅後に僕が「僕は下手クソすぎる」とか、「上手い選手がたくさんいて、今日は全然ダメだった」とか、ネガティブなことを口にすると、決まってこういわれた。
「じゃあ、サッカーやめるのか? いつでもやめてくれていいんだぞ。お前がサッカーをやめてくれたら、うちの家計は助かるからな」
そんなふうにいわれたら「絶対やめないよ、俺は」という想いが募った。
たまに試合を見に来ても「お前はまったくダメだな」とダメ出しばかり。「だって……」と言い訳をすれば、こう返される。
「そんなふうに愚痴ばかりこぼして、言い訳をしたり、仲間のせいにするくらいなら、サッカーやめてしまえ」
「やめないよ。次は絶対、ゴールを決めてやるから」
そんな親子喧嘩が日常茶飯事だった。
「いつか必ず、父さんに『今日の高徳は最高だった』といわせてやる」と僕はずっとそう考えていたから、ここまでずっとサッカーを続けられたのかもしれない。父のダメ出しは僕のモチベーションを刺激していた。
そして、プロになった今では、「今日は相手が上だったなぁ」とか、悔しがる僕を励ますような言葉を父はかけてくれる。
恥ずかしさを覚えるほどのレベルの差
楽しみだった県選抜がどうなったかというと、はっきりいってなにもできなかった。
県央選抜ではそれなりに活躍し、注目も集め、自信が芽生えてもいた。しかし、そんなものは一瞬で粉々に砕かれた。他の選手の上手さに打ちのめされたのだ。
その後、僕ら大崎中は中学二年生の新人戦で、三条市大会で優勝した。しかし、県大会へ行けば、やっぱりなにもさせてはもらえなかった。
市では通用したし、勝てた。でも、県では勝てない。チームでもボコボコにやられて、個人でも差を見せつけられる。そんな現実は悔しかったし、恥ずかしかった。
レベルの高い選手が集まる場所に、僕のような下手な選手が選ばれていること自体が、恥ずかしい。県選抜で活躍できる、そこを目指すといっていた自分もまた恥ずかしかった。彼らと同じ土俵に立てるほどの力を持ってはいなかったのだから。
そんな絶望によって、また違った感情も沸き起された。「このままでは終われない」「もっと上手くなりたい」という向上心が生まれ、同時に「負けたくない」といういわゆる「負けず嫌い」の性格に火がついた。
そんな想いが宿るほど、僕はサッカーが好きになっていたんだと思う。悔しさを感じるのは、自信があるからだ。恥ずかしいというのもまた、現状を認めたくないという気持ちの表れだろう。もしも、サッカーに執着していなくて、プライドもなく、諦められるなら、悔しくもないだろうし、恥ずかしくもなかったに違いない。
環境を変えるべきかもしれない。そんな想いが自分を支配し始めていた。
ちょうどその頃、レザーFSジュニアからオファーが届いた。市や県央選抜チームには何人もレザーFSの選手が選ばれていたし、実際彼らは上手かった。レザーFSをやめて、大崎中学のサッカー部に加入したチームメイトもレザーFSのレベルの高さを口にしていた。そんな彼と入れ替わるように僕は、レザーFSへと所属先を変えた。
レザーFSは決まったグラウンド施設がなかった。グラウンドでの練習は週に一度ほどで、あとは体育館で練習が行われていた。もともと、新潟の冬は雪が多く、冬になれば、室内練習をするしかない。体育館でサッカーはできない。物理的に不可能だ。だから、いつもそれはフットサルになった。
強豪だといっても、それは三条市内、県央レベルでの話だから、サッカーにおいては僕でも十分にやっていけた。しかし、体育館でのフットサル練習ではそう簡単にはいかない。先にも書いたように、ディフェンスラインの裏を抜けることを一番に考えてプレーし、ゴールを決めてきた僕にとって、狭いフットサルコートでは裏を抜けることはできないし、より高い技術力を求められたからだ。
ボールの扱い方(技術力)と味方の使い方(発想力と展開力)、そしてプレーすることの楽しさを重要視するレザーの指導方針も僕に好影響をもたらした。上手くなれば、余裕が生まれ発想力も自然と広がっていくことを知った。味方を使い、いかにボールを運ぶかだけでなく、自身の足技で相手を抜いたり、いろいろなことにチャレンジできる。そして、そんな選手の発想力をしばらない環境でもあった。
「もっとこうしたほうがいい」というようなアドバイスはあるけれど、もっとも大切にされていたのが「サッカーは楽しくやらなくちゃダメだよ」ということ。それはただ自由さだけを与えてくれる指導ではなく、自分で考えるということも促してくれた。やりたいことをやりたいようにやらせてくれるからこそ、選手は「なにをやるべきか」の選択をしなければならない。上手くいけば自信になるが、失敗すれば、悔しい。今度こそはと練習を繰り返し、どうすればいいかとさらに考えた。
敵を観察し、味方を見て、最善策を模索する。
サッカーにはそういうことを積み重ねていく楽しさがあることを知り、僕はわずかな期間で自身が変わっているのを実感していた。技術力が向上しただけでなく、いろいろチャレンジができたことで、「裏抜け」一辺倒だったプレーも幅が広がった。
***
以降の章では、プロになるまで、そしてプロになってからの栄光と葛藤を綴っています。
<収録内容>
プロローグ
第1章 ダブル
どうして僕だけ、みんなと違うの?
目立ちたくなかった
のびきったカエルとサッカー
初めての勇気
「県選抜」セレクション不合格のわけ
土手から聞こえた父親の怒号
恥ずかしさを覚えるほどのレベルの差
合格通知が用意する次のステップ
コンプレックスから解放してくれる場所
友人にスパイクのお古をもらい続けた
第2章 視界
質問魔と化し、真似をし続ける
サイドバック転向の理由
見て学んで、実践して、失敗して、聞いて
「お前、もうプロ気取りか?」
「プロ契約」までの道のり
背番号24に込められた想い
先発デビュー「15戦未勝利」の疫病神
驚きの代表招集と電話
参加させてもらったミーティング
サポートメンバーも日本代表である
世界への視界が開けた日、2日後の出国
第3章 ドイツ
見た目ではない。プレーがすべて
ブンデスデビュー。見せられた新潟時代の映像
オリンピックとA代表
ドイツでの壁。ぶつかりながらの模索
岡崎慎司という存在
降格争いと移籍
サッカーからの逃亡と反動
諦めたらそこですべて終わる
キャプテン就任
もうひとつの変化、ボランチ
落ちないクラブでのプレッシャー
忘れられない瞬間、2部降格
第4章 代表
「代表を引退」とはいっていない
酒井宏樹と蹴った2018年へのキックオフ
脱・長友佑都と内田篤人
決まるか決まらないか、そこで人生が変わる
ポジション争い
酒井宏樹という存在感
ヨーロッパ遠征、追加招集の意味
ハリル監督との間になにがあったのか
正しいと思った監督交代
最後のワールドカップ
ベルギー戦、アップに呼ばれた
日本代表に酒井高徳がいる必要はないと僕は考えている
第5章 人とは違う、それでもいい
いつだって「今」よりも上を探す
誰もが正しいと思うことだけが唯一の道ではない
強烈な武器がないことで得られる「武器」
チームに安定感をもたらす存在に
ドイツの圧倒的な若い指導者たち
「活躍」の意味
目立たなくても欠かせないプレイヤーになる
戦力であるために「いい返す」必要性
ドイツ的であることと、それだけにならないこと
監督と距離を置き、選手とは縮める
心地いい環境は、外からどう見えるかに注意する
「忠誠心」は僕を生かす
日本サッカーを強くしたい
エピローグ
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