近未来建築診断士 播磨 第4話 Part5-4
近未来建築診断士 播磨
第4話 無自覚な従僕たちのマンション
Part.5『観察と考察』 -4
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かさばる仕事道具を背負って角を曲がると、ちょうど春日居の小型車が滑り込んでくるところだった。当たりを見回してからそそくさと乗り込む。後部席に荷を放り込むのと同時に、彼女がアクセルを踏んだ。
「外壁の映像は揃った。けどなんもないね」
「ああ」
「サンプルは?ジニアスに持ち込み?」
「いや…」
「ああ、コアラ教授ね」
疲れた。高所で風にさらされながらの作業がこんなに堪えるとは思わなかった。高所作業が次々と機械化していったわけが身にしみて理解できた。高所は、あまりにも生活空間からかけ離れている。それに加えて今日の牧野氏、そして理事長への報告。もう、いますぐ眠ってしまいたかった。
しかし苛立ちが眠気を忘れさせる。外見上も採取した塗料も、一般的なものとそう変わらない。そんな直感が強くなるばかりだ。アメンテリジェンスマンションには何もない。小憎らしいほど手入れの行き届いた集合住宅。心の健康を害するような施設ではない。そうなると、町会長の依頼への回答は一つに絞られていく。
密に集まって住むほど、暮らす時間が長いほど近隣トラブルは大きくなってしまうのだと先生は言っていた。もちろん人によるが、隣近所の嫌な部分は時間をかければそれだけよく見えてくる。だから平穏な集合住宅はありえないと。
集合住宅の建物寿命は設備耐用年数だけで決まらない。住民同士の軋轢によるコミュニティの崩壊もまた、建物の寿命になりうるのだ。
町会長が感じていた違和感はコミュニティの終末期なのかもしれない。理事会の決めた危険な清掃作業もその一部。自分が健やかに暮らしていければ他人のことなんてどうでもいい。そういう思いが現在のアメンテリジェンスマンションを形作っているのではないか。
ぼくらはそれを『網』の存在でもって証明しようとしている。
「おいコラ」
無理やり瞼をこじ開けられる。いつの間にか目を閉じていたらしい。車は自動走行で大通りを走り、マンションを遥か後方に置き去りにしていた。
「起きたか?」
「ああ。ああ、悪い。なんだっけ?」
「作業着だよ。このままウチに持って帰る」
「これから洗濯を……」
「それも込みのレンタルだから」
春日居はやや呆れ顔で瞼から指を離した。
「『網』の件は?」
「ジニアスの、確認待ち。多分サーバー容量の問題で確かなことはわからないと思う」
「だとしても『網』が成立しているなら町会長さんに報告できる。理事共が勝手にそんなもん作ってたとすれば、明らかに法令違反。そうでしょ?」
「ああ」
「ウチらの仕事としちゃそれで十分じゃない」
「でも、ぼくらの報告で建物の価値はきっと下がることになる。牧野さんがどれだけ損をするか…」
「だったら前もって牧野さんにも教えちゃうとか。夜逃げの準備時間くらいできるかもよ?」
「そんな。守秘義務違反になる」
彼女はため息一つと共にこちらを睨んだ。
「言いたいことはわかるけどさ、こうなったらしょうがないじゃん。ウチらが欲しがってた答えは出てこなかったんだから。あとは報告するだけ。その結果がどうなるかはぶっちゃけ、関係ないでしょ」
苛立たしげにハンドルを指で弾きながら、春日居は吐いて捨てた。
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播磨さんへ。
お世話になります。嘉藤です。
先日頂いた資料の分析ができましたのでお送りします。
本資料は自己修復塗料が大部分を占めています。50年程度前の古いものと、途中で継ぎ足された市販塗料が混ざっています。
播磨さんもご存知の通り、自己修復塗料にはナノマシンが用いられております。これらは管理システム下で運用されている場合、定期的なプログラムアップデートにて更新されていきます。
具体的には外壁のナノマシンアセンブラ−から新設計のものが生産され、古いものと入れ替わっていくのです。
ですが本資料からはアップデート品が見られず、途中で塗り足されたナノマシンをアセンブラ−が雛形として生産し続けているようです。管理システムが外部からのアップデートを行っていないのだと思われます。
ただこれは異常なことではなく、時折見られる事案です。アップデートは有料ライセンス契約が必要で、これをよく思わない建物管理者が更新を怠るケースがあるわけです。万一の場合、ナノマシンハザードの恐れがありますので、基本的にアップデートは法で『整備に努めること』とされています。
しかし違法のケースばかりでもない。塗料中のナノマシン含有量に基準があり、それを下回る場合はアップデートが免除されるのです。今回の資料はこれに該当していました。ただし建設当初の含有量は不明です。直ちに人体へ悪影響はないでしょうが、念の為精密検査を行うのがよろしいでしょう。必要であればご連絡ください。
検査結果も添付します。詳しくはこちらをご覧ください。
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嘉藤教授からのデータを報告書に挿入する。
送られてきた結果は思っていたものと少し違った。この状態でよくあの清潔さを保てているものだ。だが大きな問題がないことは事実。精密検査が必要かどうかはジニアスの判断を待ってもいいだろう。
「ジニアス。今いいかい?」
『はい播磨さん』
青く輝く天秤の紋章が応え、中空に姿を現した。
「先日の解析の結果を聞きたいんだけど、その前にもう一点加えてほしい資料がある」
彼の返答を待たずに嘉藤教授からのデータをジニアスへ送る。素早く追加料金を支払い、椅子に体を預けた。
『承りました。ただ、こちらのデータを加えても結論は変わりません』
「『網』としては成立しているんだ?」
『はい。建物各部のセンサー類は『セキュリティウェブ』の受容器官として機能すると思われます。ただし貴方の考える通り、サーバー容量が問題です。建設当初から更新されていない場合、受容器官からの情報を処理することができません』
ジニアスからの報告書が表示される。アメンテリジェンスマンションの3D映像が浮かび上がり、各センサー類が色分けされて強調表示された。ただその中心の管理サーバーは穴が空いたような白く虚ろな丸で示されている。
『サーバー室内の機器更新。またはマンションローカルエリア内でのサーバー機器増設が必要です』
「なるほど」
ほぼ想像通りの結果だった。五感は足りている。頭脳のみ、不足している。その頭脳が補われたかどうかは、ぼくには調べようがない。
「ナノマシンはどうかな」
『以前の例のように改造が施されているわけではありませんので、違法性はありません』
「そうか」
どうやら、できることはここまでらしい。
ジニアスの診断報告をもって、アメンテリジェンスマンション建物診断書は完成する。外部の住民に異常過敏な理事会は、建物が原因でそうなったわけではなく、たまたまそういう性格の理事会が凝り固まってしまったのだ。『網』を作ったのも理事会と考えるしか無い。
その場合、町内会と理事会でひと悶着あるだろうが、理事会が『網』の運用をやめるとは思えない。元木氏の苦労は今後も尽きないだろう。
その時、来客のチャイムが鳴った。