天の燃ゆる火の戸 #むつぎ大賞2024
蘭領は、ていうい島を経って翌朝のこと。白煙に包まれた『あぎとの入り江』をこの目にした。京都から千五百里を越える南の果て。都人からすればあの世にも等しかろう。
入り江の海面から絶えず湯けむりが立ち昇っている。周囲には山はおろか岡と呼べるほどの起伏も無い。全き平ら。白砂は途絶えることなく内地まで続いており、地平の果ての方にようやく山々が見えるほどだ。
あの蒸気の下にいかなる火山があるのか。そもそもこのような土地に火山がありうるのか。
薄い蒸気の膜ごしに、異国の瓦と木々で組まれた大和造りの家屋が立ち並んでいる。故郷の上総にどこか似ている。建屋の数は比べるべくもないが、茫漠とした平地を背負う砂浜と木造の村が持つ影に懐かしさを覚えた。
織田家が御光石を将軍様に献上して早三十年。火山を持たぬ我が故郷はいまや伊豆国の人足にすぎぬ。火山なく、御光石を生まぬ我が所領は毛利家のように消えていくだろう。
だが見よ。どこまでも平らなこの入り江を。もしあの白煙が、火山が沸かした湯であるのなら僥倖だ。山のないところにも火山がありうるということ。転じて、我が故郷に隠れた火山があるかもしれないということだ。
もうもうと空に昇っていく湯煙はまさに雲竜のよう。できることならこのまま舳先を蹴って、この手で捕まえてやりたい。
頭上で紅毛人や黒人の船員達が忙しく立ち働き、ときおり大声を上げている。風をはらんで叫んでいた帆は降ろされていくと共に声を潜める。代わって何十本もの自在櫂が波を掴む音。それを動かす焼杉の水車軸が噛み合い、擦れ合う音が淀みなく耳に届くようになる。
素晴らしい音だ。空を突く木樋帆柱はその頂から美しい陽炎を吐いている。発熱も良し。大洋を経てきた疲れを感じさせない。航海はまさに順風満帆、壮熱転輪であった。
だが陸ではそうもいかぬ様子である。
向かう先に視線を転ずる。もやに霞むは岸部の村。そこから離れたところに港があり、大小の船が停泊している。旗印から察するに蘭国が大半。その中に西班牙国、英吉利国がそれぞれ一隻ずつあった。
腰に下げた銃把を撫でる。
この大洋に足利将軍家の二つ引き紋が翻ることを紅毛人たちは良しとしていない。連中はこの大洋を自分たちのものだと信じ切っている。その執念のすさまじさと無謀、忘れることはできない。
先の長曾我部領しんがぷーらの夜。伝説にある赤壁の戦いのごとき紅毛人共の大船団。それを紙屑のように燃やし尽くした日の本が大安宅船と、その銃眼で光る御光銃の戦列を。
銃底の鎖が首にかかっていることを確認し、弾倉の金具を外して六連筒を開け放つ。赤熱する御光石の欠片達が潮風を呼吸し、一時の間だけ猛る光を抑えた。
いまこの場にある御光銃は、この一丁のみ。連中が束になって襲いくれば奪われるやもしれぬ。いざとなればこの身一つであの夜をもう一度迎えねばならぬ。
船はゆっくりと桟橋に近づいていく。すると波の音にかわって怒鳴り声が響き始めた。甲板の船員たちが何名か、隣に並んで陸の方に目をやる。
「オサムライ」
白い肌の船員が汗をぬぐいながら寄ってきた。
「なにがあった?」
「わからん。喧嘩だろうか」
「……ああ、ちげえねぇ。ありゃガチュピンとライミーだ。血を見るぜ」
彼は金色の眉をひそめた。
欧州の様子はよくわからない。京の都をとりまく諸々よりもなお複雑怪奇と聞いたことがある。かの地では冷夏が長く続いたらしく、わずかな糧食を巡って死体の山河が築かれたという。それがほんの十数年前の話だ。
その中で立ち直りが早かった西国は欧州南方と、いまだ全容の知れぬ西印度大陸の二つに手をかけた。遅れて追いついた英国は彼らを追い落とすために、我が邦から御光石を手に入れようと画策していると聞く。
船が額を寄せ合う谷間に桟橋が見えてくる。窮屈なその足場上で人がごった返していた。二つの集団がにらみ合っているらしい。片方の一団は見たことのある十字架の装飾を身に着けている。いえずす会のようだ。一方反対側の荒くれはみな若く、貧相に見える。先頭に立つ細面の男だけが胸をそびやかせ、皮肉げに笑っているようだった。
その真っただ中に、一人の女がいた。男共が胸をそびやかし向かい合う肉壁の谷間。そこに色浅黒い女が肩を縮こまらせていた。まさに狼の郡中にある小鹿だ。
「邪魔だな」
両者は女を挟んで言い争っている。その剣幕は凄まじく、巻き添えを恐れたのか他船団の船員達は船のへりからこっそりのぞき見をしている。陸の方では、見慣れた木瓜紋ツヅラを抱えた人足達が浅黒い肌を汗で濡らし立ち尽くしていた。
傍らの黒人船員がうなずく。
「積み込みの連中もしり込みしてやがる。情けねえ」
「うむ。このままでは接舷できんな」
「追い払ってもらえるかい?」
「無論」
「よっし―――カブラヤ!」
金髪の船員が陽気に呼ばわると、船中の男たちが鬨の声を上げた。ゆっくりと腰の銃を引抜き、弾倉の一つの留め金を下ろして密閉する。
桟橋の連中がこちらに気づいた。いえずすの連中、貧相な男達、女。その全てと目が合った。そのまなこ達に見せつけるように、銃身を空で二回転させる。
弾倉のふいごが御光石を熱し、銃把を熱くさせる。桟橋の上から数名が岸に向けて逃げ出した。たぬきのような逃げ姿だ。
「安心せい。当てぬ」
小さく呟いて南蛮船の帆先に狙いをつける。焼かぬよう慎重に射線をずらす。
引き金を引く。発条が弾ける。撃鉄が落ちる。雷管が、御光石を叩く。
空気が光を発し、銃口が睨む先の空を一時、赤く焼いた。
一拍遅れてパァンと花火のごとき音が全身を震わせ、海を叩いた。
桟橋の連中はみな海に身を投げていた。他の船や陸の連中も、腰を抜かし荷を取り落としと散々な様子だ。
「―――よろしいかな?」
だが傍らの浅黒い船員は白い歯を見せて手を叩いた。
■
「オカエリナサイ!」
女が大きな瞳を煌めかせながら破顔し、桟橋から大声を上げた。それに応えず縄梯子を降りる。
数週間ぶりの陸だ。桟橋の上とは言え陸には違いない。不動の大地が頭をぐらつかせる。
「オカエリナサイ!!」
「聞こえている」
「サンバージャ、待ってた」
先ほど男たちに囲まれていた女だろうか。背は異様に高く、顔だけが幼い。女というか少女だ。その脂ぎった黒髪から獣臭と、何かの花実の匂いが漂ってくる。長いこと嗅いでいたいものではなかった。
船員が縄で降ろしてくれた荷物を受け取る。
「気をつけろよオサムライ。ミホートクの御加護を!」
「世話になった! また、ていういで会おう!」
短く挨拶を交わして船に背を向ける。桟橋は外国船の壁に囲まれた谷底のようだ。白煙に煙る空の下、あたりが妙に薄暗い。
硫黄の匂いは、まったくない。隣にぴったりと寄り添って歩く浅黒い少女の臭いしか感じられないが、事前の報告は確かなようだ。この白煙、どうやら尋常の火山から噴き出しているものではない。
桟橋の端まで歩き、海を覗き込んでみても同じだ。桟橋の橋脚柱はかすかにフジツボと海苔があるばかりで、火山性の付着物が無い。むしろ妙に綺麗だ。桟橋をかけ替えたばかりなのだろうか。しかし柱も床板も古材と言えるほど使い込まれているように思える。
くらりと頭が揺れる。陸酔いしそうだ。情けない。すると、笑顔のままの少女が腕に絡みついてきた。
「何をする! 離せ!」
「落ちる。しぬ」
どうやら介助してくれる気らしい。あらためてその顔を覗き込む。すると少女は無邪気にで微笑み返してきた。
仕方がない。まっすぐこちらを見る、その大きな目を見つめ返した。
「……蘭語はわかるか」
「あ! うん! だいぶ、わかる!」
浅黒い顔から幼さが少し抜け、口元が理知的なかたちに動いた。ひとつ頷いてみせ、その顔と同じ色の華奢な手をふりほどく。
「よろしい。ではあらためて聞こう。何の用だ」
「助けて欲しい!」
「なにから」
「怪物」
神妙な顔をした少女は空を見上げた。船から見えた、あの村の方を。
「オサムライと同じ人たち、海霧見て大きな村つくった。火山思って。でも間違い。あそこ、怪物の縄張り」
「虎のたぐいではないのか」
「虎も殺す怪物。そいつ、すがた見えない」
「姿が見えぬのにどうして、いるとわかる?」
「父、母、殺された」
たどたどしい言葉ながらも、少女の言葉に険が交った。
「かたき、とって欲しい! 私、強い人待ってた。ずっと!」
「さっきの紅毛人……よーろっぱ人共に任せればよい。腕は立ちそうだったぞ」
「最初そう思った。でもオサムライのほうが強い! ずっと!」
「……まあ、そうだろうが」
『あぎとの入り江』については、出立前におおよそ調べていた。
曰く、ていうい島の南に数十里の大陸。その入り江には妖物が住む。姿なく、音もなし。日影に、あるいは宵闇に隠れて人に近づき、その肌を舐める。舐められた肌は赤くただれたり水膨れを現す。もとより体の弱いものは死ぬこともあったという。
娘の話と符合する部分がある。この娘が日の本宛ての書簡を読めるとは思えない。誰かに語って聞かされたとすれば辻褄は合うが、誰がそんなことをするだろうか。
「ようこそようこそ、日の本のオサムライ!」
桟橋を降りて浜を踏む。すると少女のものよりはマシな日の本言葉に呼び止められた。
見れば先ほどの桟橋で口論していた紅毛人、その内の一方である。細面で貧相な恰好の、眠たげな眼をした男だった。遠目にみすぼらしいと見えたその姿はどこへやら。大股で風を切って歩み寄るそれは、なかなかの偉丈夫である。
「先ほどは失礼。とんだ手間をおかけした」
「なに。よくあること」
会釈して視線を切り、村へと歩を進める。少女も男の視線から隠れるようにしてついてくる。しかし眠たげな眼の紅毛人は長い手足をふってすぐに追いついてきた。
「お詫びと言っては何だが、ぜひ一席設けさせて欲しい!」
「お気持ちだけ頂こう。それがしは用事があるので」
「海の白煙ですな?」
男は背をかがめてこちらを覗き込んでくる。
「奇遇でございますな。私めもあれを調べに参ったのですよ!」
「……いいえ。我が主君、信長公は常に新たな商機を探しておられます。それがしは、その見分役にすぎません」
「ご謙遜を! あれが火山によるものかどうか。それを見に参られたのだ!」
ぐいと男が一歩よせてくる。自然と手が銃に伸びた。
とたんに、勢い込んでいた紅毛人は語勢をすぼませて距離を取る。内心で胸をなでおろしつつその鷲鼻を睨みつけた。少女をそっと突き放し、弾倉のふいごを一つ開ける。南洋の大気よりなお熱い白煙がほとばしり出ると男は慌てた様子で両手を振り、顔を引きつらせた。
「いやサカイ殿、シバラク! 実は、耳寄りなお話があるのです!」
「……名乗った覚えはないが」
「以前、お見かけしたことがあるのです。タネガシマだったかな。そのあたりです」
種子島? 確かに寄港した。その時に停泊していた異国船は確か蘭国と、英国船が一隻あった。
「良質な御光石を算出する火山は日の本が管理する。織田の家長様はそうお考えのはず。だからこそサカイ殿。貴方のような調査が遣わされた!」
背後からそっと袖を引かれる。
少女は真剣な顔で首を振った。
「だめだよ。こいつ海賊。口ばかり」
聞いたことがある。英国に、西国ばかりを狙う若い賊の首領がいると。そいつは蘭国の者を伴ってしつこく御光銃を求めていたらしい。確かその名は―――
「どれいく、とおっしゃったかな」
「おお、いかにも! 御存じ頂けていたとは喜ばしきこと!」
銃口で紅毛人の足元を睨んだまま、背に隠れている娘に目をやる。
「こいつに何を話した」
「貴方同じ。怪物の話」
「なぜ某に同じことを?」
「こいつ役に立たない。でも、その銃なら、もしかしたら」
そういうことか。結局この娘も力が目当てというわけだ。
誰もかれも御光石が目当てだ。それはわかる。使い方次第で力にも足にもなるこの石、欲しくない者など居はしない。
だがこの場で誰よりもこれを欲しているのは、自分自身だ。この手にある銃も、そしてあの海中にあるやもしれぬ火山。それが孕む石も、どちらも渡しはしない。
「どれいく殿」
弾倉の留め金を戻し、銃を納めた。
「設けて頂こうかな。一席」
男は一息つくと、辞儀を正して微笑んだ。
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