ウラニウムの一声
原子炉から美しい歌声が響いてくる。定まったコードもハーモニーも無い、しかし不思議と心地よい音楽が大学の実験用原子炉から周囲に放たれていた。
汚れの目立つその白い建物を横目に駅へと急ぐ。あれが始まった頃は何が起こったのか訳がわからず、会社に遅れることを構いもせずにあの壁を見つめた。
だが慣れてしまえばなんてことはない。日中は仕事で都心に出ているからかもしれないが、いまではくつろぎの時間の音として受け入れることができている。暗い夜道を自宅アパートに向かって登っていくと、原子炉から音が聞こえてくる。その音色は柔らかく私を迎えてくれているようだ。
原因はまだわかっていない。だがある日、ある時刻を境に、世界中のウラニウムが声を発した。言葉ではない。不協和音になっていないというだけの不可解な人声。
最初のうちは不安でたまらず、夜も止まないその音のせいで眠れないこともあった。原子力学科に勤めている人達は今もそうだろう。このあたりから引っ越していった人達だって同じだ。
終末思想を信奉する人々はこれを天使のラッパと解釈し、その宗教活動は狂熱を帯びた。節操のない宗教思想でおなじみの我が国もそれに乗っかり、とっくに過ぎ去った1999年がどこぞの暦に直すとやがて来る日付となっているのだ、などと囃し立てたものだ。
一般民間人はそれでよかった。暴動はあったし集団自殺者が出たとも報道されたが、月毎統計の自殺者数は過去数年と変わらなかった。それよりも大きな問題になったのは軍事関連産業だろう。
核弾頭を要する基地の周囲は歌声に包まれた。問題はそのウラニウムコーラスが、核を保管していないはずの場所で次々と沸き立ったことだろう。おかげで世界中のお偉い人たちがグロス単位ですげ変わった。うちの国も例外ではない。
科学者たちはさすがに冷静だった。騒動の当初彼らは音と放射能漏れとの関連を疑ったがそれは杞憂に終わった。彼らによれば、ウラニウム同位体の構造は以前と変わらないにも関わらず、近傍の生き物にはこの合唱が聞こえているというのだ。さらにこの歌はウラニウムと観測者の間にどのような隔壁があろうと届いてしまう。そして届きはするものの、歌声は不明の原因で音源からの距離により減衰するらしい。
あれから数週間。今も世界は『歌うウラニウム』の話でもちきりだ。だが仕事は休みにならないし、いま駅に向かって伸びるこの道が崩落したりもしない。
音はやまない。緩やかな音律の展開が時に高まり、そして静まる。自然に体が音楽に合わせて揺れてしまう。
坂を下り切り、駅までの道を真っすぐ歩いている最中、ふと違和感を覚えた。原子炉の歌は建物から離れたせいか、後ろからかすかに聞こえる程度。しかし頭上から小さく囁くような輪唱が聞こえる。
青空を見上げると、白い月が雲と一緒に浮かんでいる。
くらげのようなその姿が、ぼんやりと青く光った。
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習作
テーマ『鶴の一声で嫌な目にあったので書きました』
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