『未来のイヴ』読書会の記録【感想・ネタバレ】
底本
※この記事は『未来のイヴ』のネタバレを含みます。
読書会までの道のり
きっかけは去年の12月17日(土)に遡る。私は友人とジュール・ヴェルヌ『月世界へ行く』で読書会を行った。その一月ほどまえから私はイーロン・マスクを通して宇宙開発に関心を持っていたのだ。自分の小説のために読んだのである。そのとき『未来のイヴ』も一緒にやりたいと提案されたのだが、テーマが違いすぎる。決定的な点で言えば両作品とも長かった。
私は現在のところ無職だが、いろいろな用事を入れて忙しくしてしまう悪癖があり、とてもそんな長さの小説をいくつも読む時間がなかった。本人も数年前に読んでから自分の手元に本さえ持っていない状態だという。
一月、二月はお互いに忙しいということで三月に延期することにした。折角だから私は他の友達を誘ったのだ。二人とも承諾して先日3月4日(土)に読書会が実現したわけである。
場所は神保町の某喫茶店。14時に予約した。休日の神保町は非常に混雑する。
13時45分に駅に到着して友人を待っていた。もう一人は先に店に入っているらしい。早めに着いてしまったため古書店を巡ってから(澤口書店のドイツ文学の棚が縮小されていた……カフカの研究書が一冊しかない。エルンスト・パーヴェルの伝記が売っていたのはもう何年もまえだ。誰か買っていったのだろう)、私はA7口に戻った。さぼうるの近くだ。階段を人々が上ってくる。
私は探し物をするのがとても苦手なのだが、友人のことだけはすぐに見分けられる。
中澤:久しぶり。
友人:ごめん。待たせてしまって。
中澤:全然。(一緒に路地を歩き出す)
友人:髪のびた?
中澤:ああ。でも切ったほうだよ。1月に旅行に行ったときに。
友人:旅行?
中澤:写真送ったじゃん。海の。
友人:ああ、あれ旅行だったんだ。
中澤:旅行だよ。なんだと思ってたんだ。そういえばTOEICの試験受けてたけど、転職でもするの?(友人の速い歩調に合わせる)
友人:転職? ううん、しないよ。受けただけ。900点を目指してたんだけど、難しくて。800点までいけるかなって思ってたんだ。でも795点だった……。
中澤:あれは英語っていうよりもビジネスの問題だからね。ずっと会議やってるし。でも795点もとれたならすごいよ。
友人:あと5点だった……。(目的の喫茶店につく)
中澤:なかでもう待ってるはずだから。
友人:本当? 久しぶりだなあ。(私の開けた扉をくぐる)
二人が会うのは五年ぶりである。私はそれなりの頻度で会っているので彼らが話す近況を補足しながら鞄から3冊の本をとりだした。
この読書会の記録を残すにあたって二人の合意をとった。匿名でなら、ということなのでここから二人のことをAAとOUとで表記する。
アンドロイド「ハダリー」
私たちは店員さんに注文を済ませる。OUは紅茶を、AAはベトナムコーヒーを、私はトマトジュースを頼んだ。カフェインが摂れない体質なのだ。お付き合いいただくあなたも、ぜひなにかお飲み物をおともに耳を傾けていただけると幸いである。
中澤:とりあえず私から最初にテーマを出そうかな。冒頭でエディソンが蓄音機で聖書の言葉を録音できなかったことを嘆くよね。そことエワルド卿に頼まれてハダリーを作成するのは繋がっている。人間の複製品を作成するんだけど、どちらにも通底しているのが複製物にアウラが宿っているかどうかというところだと思ってる。エディソンは素朴にキリストの声を複製することを叶わない願いとして思い描くんだけど、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』では、そうした複製物からはアウラがなくなっていると述べている。そこで思い出したのが小林秀雄の『ゴッホ』だったんだよね。例えばこの部分。
中澤:小林秀雄は複製物自体に宿るアウラよりも、複製物から与えられる感情、感動のほうを重要視している。ここは議論したいところなんだけど、そうした感動が真正なものなんだろうか? ヴィリエ・ド・リラダンの小説では最終的にハダリーを棺に入れてエワルドがアメリカからヨーロッパへ帰っていく。その最中に海難事故に遭ってハダリーの入った棺を救出してくれと賞金や命を賭けるんだけど、その一方でもともと愛していたはずのアリシヤ、つまりハダリーのモデルは救命ボートから落ちて溺死してしまう。エディソンはそのことを新聞で知って怒りなのか放り投げる。それからエワルドからの電報。
というふうに小林秀雄と同じように感動——ここでは幻となっているけど——を重要視している。問題は二つあって、一つは複製芸術にアウラは宿るのか、もう一つは受容者が複製芸術から得た感動は真正なものなのか。この点についてどう考える?
AA:私はそもそもハダリーがアリシヤの複製だという風には読んでいなかった。完璧なものを作ろうとしたときに偶然そこにいたのがアリシヤだったというだけで、アリシヤを複製したものではないと思った。
中澤:でもモデルとして作るという時点で、模倣されているものじゃないかな。
AA:アリシヤは完璧な人間を作るための素材でしかない。
OU:アリシヤを通して完璧な人間を作るってことか。
中澤:AAの話でいうと、まずアリシヤがいて、アリシヤをもとにハダリーを作成して、ハダリーを通して完璧な人間を作ろうってこと?
AA:完璧な人間を作ろうというのが最初にあって、たまたま素材としてアリシヤがいたというくらいで、例えば美しいヴィーナス像を作ろうというときに、そこにいた美しい女性をモデルにしようくらいにしか思わなかった。
OU:確かにエディソンの意図はそうだよね。まえにエディソンの友達が浮気をしてしまって、そのときに人造人間っていう着想を得てる。たまたまエワルドが同じような事件を持ってきて開発を始めた。だからエディソンとエワルドでそれぞれ目的が違うと思う。エワルドはアリシヤの肉体的な美と精神的な美とが釣り合っていないから、精神性だけ奪ってしまえればいいのにと考えている。エディソンは完璧で十全な人造人間を作りたいという目的があって、だからこそ二人は対立しつつ、最終的にはエワルドが納得させられる。
中澤:なるほど。ちなみに完璧な人間っていうのはどういうものとして考えてる?
AA:それこそが問題かなと思ってた。この小説自体が芸術というものを題材にしていて、大部分がハダリーの設計の説明になっている。というのは所詮は芸術が人間が作り出したものだということで、こういう言い方だとマイナスな表現だけど、そうではなく、人間が芸術を作り上げる過程を描いていて、出来上がった作品はとにかく美しい。
動物磁気について
OU:構成というのは考えていて、私は逆方向からアプローチしていた。構成するためにはどうして人間がこのように感じるのかを分析しなくてはならない。それがずっと続いてる自然科学的な描写にある。つまり美しい人がいた場合、なぜ美しく感じるのかを一度バラバラに分解してから、また再構成する必要がある。そのときに別の素材を使って作るというのは芸術の方法ではないか。絵画にしてみても実際の風景をもとにして作成するけれど、その風景と絵画には差があるはず。ただし構成することと、それを感覚することを考えているなかで、最も重要な部分であるハダリーの魂を心霊実験で分離した女性の魂とするのは神秘主義的すぎる気がする。この時期だから仕方がないのかもしれないけれど。
AA:この時代には動物磁気という概念があって、それを前提にして書いている。例えば犬の死体に電気を流すと足が動いたりするけれど、当時の人々はそれを魂の表れだと考えていた。
OU:なるほど、合点がいった。だから電気の描写が多いんだね。そうした自然科学的なものと超自然的なものとが同一に考えられていたんだ。
中澤:SFの歴史的には動物磁気を取り扱ったものってあったの?
AA:それは結構ある。もちろんリラダン以前にも。ゲーテの『親和力』もそうじゃなかったっけ。
中澤:親和力と動物磁気はちょっと違うんじゃない?
人造人間と完璧な人間
中澤:完璧な人間を作るというときに女性である必要性はなんなんだろう。
AA:古代ギリシアのピグマリオンからある問題じゃない? ピグマリオンは自らの理想としてガラテアを作って、アフロディーテに人間にしてもらい、妻として娶った。『未来のイヴ』の下敷になっているのはそうだよね。でももちろんそれは作家が男性であるし、受容者がほとんど男性であるということに起因する。
中澤:完璧な人間っていいながら芸術作品を作っているわけで、エワルドも幻だと書いているし、屈折したものを感じるんだよね。
AA:どこかに最高のものがあるんだと思って、それは作品なんだと思う。
中澤:そう、作品なんだよね。そもそも人間は神を象って作られたもので、神の複製物だと言える。その複製物がまた自らを象ったものを作るっていうのは、やっぱり一次創作ではなくて、二次創作的なものにあたるんじゃないかな。表現=再現の複製だ。
AA:そのときにはもう人の次元にはいないんじゃない? 神の次元にいる。
中澤:でもそうなると万能ということになるけど、実際に作られたハダリーにはさまざまな制約がつけられる。例えばこういうところ。
OU:休ませなくてはいけないしね。
中澤:結局、完璧な人間、完璧な作品にはなっていない。
OU:存在として完璧というふうには考えなかった。それをどのように受容者が完璧なものとして受け取るかのほうが重要。だから留保としてアリシヤが美女だという必要があるんじゃないか。最大公約数的には完璧であるといえる。
中澤:受容者にとって完璧であることのほうが重要なのか。
OU:存在として完璧なら創作だからどうとでも書けたはずだけど。
AA:この時代は科学が万能なものとして考えられていたから。
OU:ただ色々な制約はやっぱりついていて、万能としては描かれていない。結局のところ完璧なものに見えるということが大切で、受容者はイメージしか受け取っていないだろという批判が込められているんだと思った。ハダリーは受容者=エワルドにとって完璧なイメージをもたらしてくれる制作物なんだ。
中澤:特定の人物をモデルにしているっていうのは複製物になると思うし、人間であるアリシヤよりも複製物のハダリーにエワルドが命を賭けるというのが疑問なんだよね。AAはハダリーが完璧な人間だというふうに考えているから疑問はないわけでしょう?
AA:完璧ってどういう定義?
中澤:え? AAが言ったんじゃないか。
OU:たぶんこの小説のなかに書いてあるかぎりにおいての完璧性だよね。
AA:そうだね。理想って言ったほうが妥当かな。
中澤:だとすると、理想の人間だからってこと?
AA:他者として理想だから。
中澤:アリシヤではないのは?
AA:汚い精神を持っているから。
中澤:だから除外されているっていうことか。
AA:あえて除外したのではない。アリシヤかハダリーかという二項対立ではなく、もうハダリーかその他かになっていると思う。
中澤:それは違うでしょ。そしたらアリシヤが亡くなったという記述は不要になっちゃう。ラストの場面でアリシヤではなくハダリーを選んだんだということが二項対立的に描かれている。ここに決定的な選択がされていると思う。
AA:エワルドにとってはハダリーかその他すべてなんじゃないかと思ってる。
中澤:なるほどね。主人公の視点に立っていたのか。個人的にはエワルドが人間よりもその複製物を選んでしまうとリラダンが書いていることに重きを置いていた。そこらへんが19世紀的なものというか、複製技術時代に入っているところだと私は考えている。
OU:でもエワルドにとってもアリシヤか、ハダリーかという二項対立じゃないとおかしい箇所がある。ここが顕著だ。
OU:このあとでエディソンを殺してしまおうとエワルドが怒るのは、やっぱりアリシヤか、ハダリーかという二項対立的なものを持っているからだと考えられる。アリシヤかその他だとするとそんな感情は持たないはずだ。
AA:エワルドが急に心変わりするのが分からない。ラストにはもうアリシヤのことを忘れてしまったと書いているし。この心変わりは19世紀的な書き方だと思う。内面の雑さというか。
中澤:19世紀ってそんなに内面があやふやなものなの?
AA:本筋の物語から離れてしまっている事柄に関してはどうでもいいという態度はすごく19世紀のフランス文学っぽい。
OU:スタンダールの『赤と黒』もそうだよね。レナール夫人と恋に落ちるけど、事件が起きて裁判が開かれても、気持ちは変わらないって書いているのに、結局はピストルで撃ってしまう。
AA:恋に落ちるシーンが美しく描かれるけど、それが最後までは続かない。
OU:この小説では結末部でもうハダリーを選んだから、エワルドは逡巡する必要がないってことね。
作品を棺の中に入れること
AA:ハダリーが棺に入れられていることが象徴的。
中澤:どういうふうに象徴的なの?
AA:エディソンなのか、作者なのかは分からないけど、作品が死んでしまうまえに葬られている。
中澤:でも海難事故で失われるんだよね。
AA:棺に入れることが重要だと思ってる。
OU:キリスト教的なモチーフだよね。キリストも棺に入れられる。復活するために。
中澤:どちらかといえば古代エジプト的だと思った。というのもキリスト教における聖遺物はキリストの身体ではないから。キリストを殺害した槍や遺体を包んだ布のように周辺的なものに限られる。
AA:キリストの身体はパンで、血はワインで。
中澤:それはキリストが言葉だというのが前提にある。キリストを体内化することが、聖書を読む行為と重なってる。仏教では仏舎利があるけど。
AA:そもそも火葬する日本が珍しい。
中澤:火葬が一般民衆に広まったのは明治期以来のことだ。日本の中世では風葬といって死体は山に捨てて風化させていた。だから公衆衛生も悪辣。
AA:だから姥捨山っていうのか。
中澤:古代エジプトでは復活のために臓器まで保存していた。完全に復活を果たすために。どちらかといえば棺からの復活はキリスト教ではないんじゃないかな。
AA:ヨハネ福音書にはラザロの復活がある。
中澤:なるほど。ここで宗教戦争していても仕方がないな。
AA:棺の中で作品は永遠になるんだと思う。
中澤:でも物語はそうなっていない。
AA:エディソンが最後に星を見つめるけど、星は永遠を象徴するでしょ。だからエディソンは怒ったんだと思う。
中澤:そうなると芸術は自然に及ばないという話になるね。
『未来のイヴ』のセクシャリティ
AA:エディソンがアダムで、ハダリーがイヴだと思う。
中澤:それはおかしくない? だってアダムはイヴを作ってはいないでしょう。創世記のおかしなところだけど、まず神がアダムから肋骨を抜いて肉をつけて女を作る。アダムは女に女と名づける。
AA:アダムとイヴ、エディソンとハダリーでどう違うの? エディソンはハダリーを作ってる。
中澤:でもエディソンは素材として自分を選んでいないし、アリシヤから作っている。それに妻にもしていない。エワルドに渡してる。全然違うと思うよ。
AA:婚姻関係が問題なのね。私はハダリーはエディソンの第二の自己だと思った。だからイヴなのかなって。
中澤:それは面白いな。突き詰めていくとこの作品はホモソーシャル的なものから逸脱していくね。つまりエディソンは第二の自己=ハダリーを通してエワルドと恋愛しているということが言える。そこまでラディカルには読めなかったな。だからこそ海中に沈没したハダリーと同期するようにエディソンは最後に寒さから震えるわけだ。
AA:そこまでは考えてなかったけど。
中澤:でもそう読んだほうが面白い。
AA:作品は過去の私を保存するものだっていう感覚が私にはあるから、単純にエディソンは自分の過去をハダリーに入れたのかなって。
中澤:私にはそういう感覚はないな。書かれたものはすべて嘘だし、他者のものだって思ってる。
AA:そうなんだ。
中澤:この作品で面白いのは主人公エワルドが受容者の側にいるということだよね。
AA:そこは本当にそう思う。これまでのSFではあまりなかった。
読書会の帰り道
一通りの考えを発展させたあとで私たちは注文したカップやグラスのなかがそれぞれ空になっていることに気がついた。私が最初に持ってきた論題は話のどこかで展開されただろうか。それとも棄却されただろうか。再度この文章を読み直さなければならないだろう。
私たちは世間話を始めた。AAとOUは打ち解けてフランス文学の話をしている。モーパッサンの『オルラ』について。私は書き散らしたメモ用紙を眺めながら、やはり自分とはまったく文学観の異なるひととの読書会のほうが刺激的だと思った。もう少し精読する時間が欲しかったが、全員の専門は別々だ。私はここのところ近日中にnoteに上げるカフカ論につきっきりになっているし、AAには仕事があるし、OUもアルバイトと研究で忙しい。
OU:そういえば、このまえ『感情教育』を買ったんだよ。(リュックサックからペーパーバックをとりだす)
AA:本当だ。
中澤:どれくらい読んだの?
OU:全然だよ。読むの遅いから。
中澤:嘘だよ。OUは一日に30頁くらい読めるじゃん。
AA:最近フランス語やってないからなあ。
OU:周りの人がすいすい読んでくから、全然だと思うよ。
中澤:そうだ、次は『感情教育』を原書で読もう。
AA:私も入っていいの?
中澤:もちろん。カフカが好きなんだよ。恋人のフェリスに『感情教育』を一気に何日経っても読み聞かせたいって書いてるんだ。
AA:この長さを?
中澤:うん
OU:じゃあ朗読の練習しとかないとな。
中澤:カフカは自分のフランス語の発音の酷さを嘆いてたよ。
私たちは自分たちの飲み物代をそれぞれ払った。トマトジュースは650円だった。外に出るともう17時近い。AAは16時46分の電車に乗るからと足早に駅へと向かっていった。
私とOUは喫煙所を探し求めて坂を上り、御茶ノ水へと辿り着いた。橋を渡った先、大学附属病院を対面にしたところに公衆喫煙所がある。私はセブンスターを吸い、OUはキャメルを吸っている。このあと池袋へ行って他の友達と食事の約束があるという。予約した店らしく、私の席はなかった。
丸の内線の入り口でOUと別れてから私は坂を下りて秋葉原に向かう。そのあいだに「感情教育」というグループラインにAmazonのURLを貼った。
私は電話をかけた。後輩の家が近くにあるのだ。今日は在宅しているらしい。すっかり喫煙所になっている。色々な煙草がストックされているのだ。後輩は「Jazz Sessions」という期間限定のPeaceを勧めてくれた。バニラの匂いがするが、吸ってみるとPeaceの味がする。美味い。後輩がゲームをしているところを眺めながらJPSとネット限定の黒いセブンスターを吸う。UBERで寿司をとって食べると帰りたくなったので後輩に別れを告げる。またすぐに会う予定があった。
上野公園は桜が咲いている。写真を撮って友達に送った。春の風のような声をしている友達にぴったりだと思ったからだ。
電車に揺られながら帰路に着く。23時になっていた。私は炬燵で寝ている母親に「風邪をひかないように」と叫んだが、その甲斐はなかった。明日こそ本当に休もうと思っていたが、書くことが増えてしまったから難しいなと思いながら眠りにつく。
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